青木美智男「小林一茶--時代を詠んだ俳諧師」

青木美智男「小林一茶--時代を詠んだ俳諧師」を読了。

小林一茶 時代を詠んだ俳諧師 (岩波新書)

小林一茶 時代を詠んだ俳諧師 (岩波新書)

江戸後期の俳諧師小林一茶(1763-1827年)は、30代の初めから晩年に至るまで、その日の晴雨と出来事を記した日記をつけ、詠んだ俳句を克明に記した稀有な俳諧師だった。そして毎月、その月んい詠んだ句からこれはという句を書きとめた。晴れと雨の日数、在庵と他家の回数、詠んだ句数を記録した。この習慣は39歳から63歳まで22年間に及んだ。
一茶は生涯でわかっているだけで2万1200の句を詠んだ。50年の生涯だった芭蕉は967句、67年の蕪村は2918句だから、驚くべき多作だった。
一茶は芭蕉の確立した蕉風と一線を画し、粗野な人間を意味する荒凡夫として夷(ひな)の俳諧に徹した。
信濃国で生まれた一茶は継母とうまくなじめず、15歳で江戸に奉公に出る。
貧乏暮らしの中で、25歳あたりから俳諧師として生きていく決意をする。一茶を名乗るのは29歳。30歳で、四国・西国への6年に及ぶ旅に出る。こういった旅は、各地の宗匠との繋がりを持つことになり、俳諧の宗匠として認められるには必須の条件だった。
39歳、父から財産分割の遺言状を与えられる。
41歳でようやく江戸で俳諧師として認められる。各地の俳諧師と句会を持ちながら、日本の古典や漢籍の学習を進め、当時の話題の書物も読むなど読書の範囲は広かった。
40代後半には、「正風俳諧名家角力組」という番付では上段東前頭5枚目に紹介されている。

もの凄い読書家であり、晩年の61歳から古典の抄録を開始し、克明に書写を行った。読書傾向からみると、日本優越論につながる国学に傾倒していたようだ。
一茶が生きたのは文化文政期であり、養蚕業や製糸業などの産業の勃興とそれに伴う貧富の差の拡大の時代であった。また、アイヌの和人化政策、そしてロシアの接近など内外をめぐる社会情勢も緊迫していた。そういった時代に中で一茶は社会性をもった句を詠んでいる。

一茶の句作は、59歳と60歳が句作数のピークであった。

遺産相続を勝ち取った一茶は50歳で故郷に戻る。
52歳で28歳年下の菊女と結婚する。
61歳の時、菊女が死亡。
62歳、38歳の雪と再婚するがすぐに離婚。
64歳、32歳のやをと三度目の結婚。
65歳で死去。

松かげに寝てくふ六十余州哉
芭蕉の脛をかじって夕涼み
もたいなや昼寝して聞田植うへ唄
穀つぶし桜の下にくらしけり
名月を取てくれろと泣く子哉
腹上で字習ふ夜寒哉
秋の風乞食は我を見くらぶる
山寺や木がらしの上に寝るがごと
君が世や茂りの下の耶蘇仏
世の中をゆり直すらん日の始
とく暮れよことしのやうな悪どしは
芭蕉忌やえぞにもこんな松の月
えた町も夜はうつくしき砧哉
花の世や出家士(さむらい)諸あき人
僧正が野糞遊ばす日傘哉
大名は濡れて通るを炬燵哉
なの花のとっぱづれ也ふじの山
雪の日や古郷人もぶしらひ
目出度さもちう位也おらが春
這え笑へ二つになるぞけさからは
はつ雪に一の宝の尿瓶哉
ぽっくりと死が上手な仏哉
花の影寝まじ未来が恐しき

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