人形作家・与勇輝--「そう、鏡なんです。」

多摩センターの京王プラザホテルでイケダハヤト(池田勇人)さんと昼食を摂りながら1時間半の情報交換。
情報と刺激をもらった。

河口湖ミューズ館・与勇輝(あたえ・ゆうき)館。

与勇輝は本名。人形作家。1937年生まれ。与という姓は両親の育った奄美大島にある。
19歳、マネキン人形の会社に就職しデザイン、制作、ディスプレイなどに携わる。
26歳、日本デザインスクール卒業。
28歳、マネキン会社勤務の傍ら、布の材質にこだわった創作人形づくりを始める。
その後、46歳の時にマネキン会社を辞め、人形づくりに専念する。多くの人の縁を得て、世に出る。
56歳の時に、町立河口湖ミューズ館・与勇輝館が開館。

日本には「生き人形」の伝統があり、この伝統とフランス製のマネキンの融合があり、日本は独自の方向に進んできた。
マネキンはしょせん洋服を掛けるハンガーでしかないと感じた与は、自分だけの人形を作ろうとする。

飯沢匡(劇作家)「与氏の人形には溢れるばかりの生命感が漲っている」「氏の人形は布で作った彫刻なのである」
佐藤忠良(彫刻家)「彼の自然観察による素描の深さが形象化されて、自分が彫刻するときのねがいを見事にみせてくれていたからである。」「「人形」というまことに危い世界に身を投じたての戦い、見事な与勇輝といえよう」
黒柳徹子(女優)「与さんの手は魔法の手」
大滝秀治(俳優)「とにかくすごい行きなさい!すぐ行きなさい!行かなきゃいけない」
藤井フミヤ(歌手)「作品の魅力を一言で言うなら、「生きている」ということだ。」
藤森武(写真家)「私の師・土門拳はリアリズムを提唱した写真家である。、、与さんは人形界に於ける土門拳である」
山内静夫(映画プロデューサー)「小津映画そのものがそこにあるように思えて言葉を失った」

与勇輝の言葉。

  • 人形はいやでも自分に似てしまう・いつも鏡の中の顔を見ているし、指先が、筋肉の流れを知っているから。
  • できあがった人形には人格が備わって、ひとり歩きしはじめる。主張するし、生意気になる。人形には人形の人生があると思う。
  • 「そう、鏡なんです。」
  • 「居酒屋から帰って仕事部屋を覗くと、人形たちは一斉に私を見る。諌めるように、諭すように。」
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1876年(明治8年)の本日、太田垣蓮月尼が逝く。85歳。
蓮月焼、和歌、三味線、笛、絵、碁、裁縫、茶湯、生花、薙刀柔術、、、など万能。