童門冬二「小説・小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男」

童門冬二「小説・小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男」を読了。

卓越した先見性と構想力を持ち、激動の幕末に外国奉行勘定奉行軍艦奉行等を歴任し、徳川幕府の存続に力を尽くした三河譜代の気骨あふれる武士・小栗上野介(1827−1868年)の物語。

著者の童門冬二は1927年生まれだから、ちょうど100年はやく生まれたのが小栗だ。
小栗は近代日本の設計者だが、その設計図を明治の新政権が実行した。
「廃藩し郡県制に切り換え、幕府を中央集権政府とし、その主宰者お権限を拡大する」という小栗の新日本構想を明治政府が実行した。

著者は小栗の「混濁した世の中で貫く人間としての潔さと誠意」に興味を持ってこの小説を書いている。組織と人間というテーマを持つ著者の関心を引いた人物なのだろう。

幕府を代表する傑物、4歳上の勝海舟小栗上野介の二人のライバルを対比しながら、幕末の様子を幕府側の視点で描いている。

ポーハタン号(2400トン)でアメリカに渡った正副使節の目付が小栗で、もう1隻の咸臨丸(300-400トン)の艦長が勝であった。一行はアメリカ西海岸、東海岸、アフリカ、喜望峰、ジャワ、バタビア、香港を経て、品川に上陸している。世界一周をしている。小栗は「最も日本人らしい威厳と落ち着きを備え、その容姿が端麗でスマートだった」と言われている。

与えられた状況の中で精一杯力を尽くし、沈みゆく船を必死に持ちこたえさせようとする頑固で優秀な行政官僚の姿は清々しい。小栗を登用したのは井伊直弼で、小栗が最後に仕えたのは徳川慶喜である。
「お役替わり70数度」と言われるほど、人事異動が多かった。能力の高いマルチ人間だった。外務大臣、大蔵大臣(4度)、陸軍大臣海軍大臣東京都知事、、、、。

小栗の最大の業績と言われているのは、「徳川幕府軍のフランス式改良。その指導にあたるフランスからの指導教官の招聘。横須賀造船所の建設」である。
横須賀造船所は、仮に幕府が倒れても、新しい持ち主は「土蔵付き売家を買ったことになる」と小栗は言った。日本へのプレゼントである。

世界に肩を並べるには、日本の海軍力・海軍力整備が急務という考えから、資金難を乗り越えて、実行した。この製鉄所には、フランス人25人、日本の判任管72人、等外吏121人、番人20人、筆算雇27人、職工1344人、請負職工等100ないし450人を抱えていた。明治政府の殖産興業・富国強兵の模範だった。

明治政府時代には小栗の評価は低かったが、造船と修理にあたった横須賀製鉄所建設の功績は大きく、司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記している。
後年日露戦争の英雄東郷平八郎は、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」とし、地方の山村に隠棲していた遺族を捜し出し礼を述べた。
大隈重信が後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と発言したほどの人物だった。

1868年に江戸城大会議において主戦論を展開し、役職のすべてを免ぜられ隠退。知行国である権太村東善寺に落ち着く。東山道先鋒総督府が追悼令を発し、捕縛され、斬首される。享年42歳。
斬首の地に建つ顕彰慰霊碑の碑文には「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と記されている。

群馬県高崎市の東善寺を訪ねたい。