下村観山。安藤百福。黒岩重吾。

思い立って、人物記念館の旅で横浜へ。
下村観山(横浜市美術館)。安藤百福カップヌードルミュージアム黒岩重吾神奈川近代文学館

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桜木町で降りて、横浜市美術館で開催中の「下村観山展」。

岡倉天心門下の横山大観と並ぶ俊秀。この人には二人の理解者がいた。
師の天心と、実業家の原三渓である。下村観山(1873-1930年)は、30代にはとうとう横浜本牧和田山の三渓の所有地内に住んで終焉までここで絵を描いた。穏健は人柄で原に愛されたようだ。
もともとは紀州藩の小鼓方で幸流の能楽師の系統である、故事に詳しい。
父は最後の狩野派絵師であり、最初の日本画家であもある狩野芳崖に託し、その後は橋本雅邦に師事する。
才能を早くから発揮し、9歳で北心斎東秀という号をもらう。
16歳で、東京美術学校の一期生として入学する。以後は、天心と大観と一緒に行動する。
30歳で英国留学。ラファエロに関心。
師の天心の死に際し、大観と日本美術院の復興を誓い、1周忌に再興を果たす。
57歳という画家としては早い死であった。
調べてみると、同志の菱田春草は37歳、木村武山は66歳であり、大観の90歳が群を抜いている。
売店でJAL時代の仲間だった女性と偶然会う。

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安藤百福発明記念館。愛称はカップヌードルミュージアム

5階建ての大きなスケールの建物。子供連れの客が多く、大人気のミュージアムだ。
体験型で、自分でカップ麺がつくれるそうだが、予約で満杯だった。

安藤百福(1910-2007年)はベンチャー精神とバイタリティにあふれた面白い人物だ。
メリヤス、養蚕事業、幻灯機、航空機エンジン部品、炭焼事業、バラック住宅、製塩業、交通技術者養成学校、病人用栄養食品など多くの事業を立ち上げる。
最後に行き着いたのが「食」に関する事業だった。
ハレー彗星の接近とともに生まれた安藤百福は48歳でチキンラーメンの開発に瞬間油熱乾燥法を用いて成功。61歳で究極の加工食品と呼ばれるカップヌードルを「開発。95歳で永年の夢であった宇宙食ラーメン(スペース・ラム)を開発しNASAに提供し野口聡一宇宙飛行士が宇宙で食べた。日清食品の社葬は宇宙葬であった。
インスタントラーメンの父と呼ばれたが、亡くなった時、ニューヨークタイムスは社説で「ミスター・ヌードル」と呼んだ。「人に魚を釣る方法を教えればその人は一生食べていけるが、人に即席麺を与えれば、もう何も教える必要はない」とも社説は語った。
タイム誌で行ったアジアの英雄66人にも選ばれている。
また、富士総合研究所が行った20世紀の世界をうならせたメイドインジャパンというアンケートでは、2位のカラオケ、3位のヘッドフォンスステレオ、4位の家庭用ゲーム機、5位のCD、6位のカメラ、7位の黒澤明、8位のポケモン、9位の自動車技術、10位のすしを抑えて、堂々の1位である。
小学館ラピタ」のメイドインジャパン大賞では、1位にカップヌードル、6位にチキンラーメンが入賞している。
驚きの多い、実に楽しいミュージアムだ。

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神奈川近代文学館で開催中の黒岩重吾展。

黒岩重吾(1924−2003年)は、同志社在学中に学徒出陣。株で儲けて酒色に溺れてある日全身麻痺に襲われる。入院3年。「書く以外に生きる方法はない」と決心し、1961年に「背徳のメス」で直木賞を受賞。その後、あらゆる注文を引き受け、月間700−800枚を書いた。19070年後半からは、古代を舞台に歴史小説を書く。
「私は、人間の生につながるセックス、金銭欲、権力欲、等の飽くなき欲望を、えぎりにえぐり、人生とは何?を酷烈に自問自答させたい」と小説を書く動機を語っている。
「阿騎野の朝に志を立つ」
「生きることを苦しく思う時、思い切り生きたい」。

直木賞選考委員として、1984年上半期から2002年下半期まで。
吉川英治文学賞選考委員として、1990年から2003年まで。
柴田錬三郎賞選考委員として、1988年から2002年まで。
古代の歴史については、なかなかリアリティを感じることができないので、この人の書いた小説を読んでみるか。
「中大兄王子伝」「日の影の王子 聖徳太子」「白鳥の王子 ヤマトタケル」「紅蓮の女王」「茜に燃ゆ」、、。