高山彦九郎---尊王思想の源流を生んだ大いなるネットワーカー

吉村昭は、前野良沢を描いた「冬の鷹」という逸書を書いた折に、親しかった高山彦九郎(1747-1793年)を知った。
高山彦九郎日記」全五巻を参考に書いたのが「彦九郎山河」(文藝春秋社)である。

彦九郎山河

彦九郎山河

細井平洲を師と仰ぐ高山彦九郎は、足利幕府以来の武断政治を仮の姿とし、朝廷による文治政治が日本本来の政治の姿であるとの確信を持っていた。
そのことは徳川幕府に対する疑念となっており、反幕の思想であった。
この考え方は日本国内に深く浸透し「尊王攘夷」という思想を産んだ。それが明治維新に連なっていく。
この反幕の思想家は幕府の追求にあって、最後は自刃で命を断つ。

彦九郎は、自らの天命を背負って、日本中の同学の徒を訪ねる旅に暮らす。
蝦夷地に入ろうとしたが果たせなかったが(司馬遼太郎松前に渡ったとしている)、北は津軽から、南は薩摩まで恐るべき健脚をもってくまなく歩き続けている。
この旅は風呂敷の中に筆立て、硯、手ぬぐい、半日の食料などが入っているだけであった。
「彦九郎山河」は、その足跡を丹念に負った書物だ。
当時、東海道五十三次は15日、ゆっくりいくと一ヶ月かかった。九州までは二ヶ月近くかかった時代だ。
歩いた距離と、会った人の数、そしてほとんどの人が彼の人柄と学問に魅せられていることが描かれている。

先日訪ねた高山彦九郎記念館では「高山彦九郎 五千人の交遊録」という企画展をやっており、公家、儒学者、無名の人々などその交遊の広さに驚いた。高山は今で言うネットワーカーだったのだ。ネットワークをつくり、つなげながら、自らの思想を練り上げ、日本の中に伝播していった人である。知的武者修行でもある。

この本の中では、江戸中期の東北の姿が克明に描かれている。
浅間山の爆発以降に襲った天明飢饉の惨状が凄まじい。
  津軽領では男女8万7千2百人が餓死。その数は領民の3分の一。それどころか半ばは飢え死にした。
 青森では4千軒あったが、火災と飢饉で千軒にみたぬ家数になった。
 内真部という村ではひとり残らず死に絶えた。
 ついには人に肉を食うまでになった。親は子を、子は親を。人肉にまさる味わいはない。墓地を掘り起こしたあと。
こういった惨状は、武断政治の結果であると彦九郎は思う。

京都では、幕府におびえる公家たちを励まし、王政復古に向けて強い刺激を与える。彦九郎は彼らの思想を指導する立場になっていく。
光格天皇が父・展仁親王に譲位後の称号である上皇の号を贈ろうと考えた。このときの幕府は松平定信が老中だったが、それを認めない。
この尊号問題は朝廷と幕府のどちらも譲れない大きな問題となっていた。
これに薩摩藩の力を借りようとして彦九郎が旅をする。厳しく検問する薩摩にはなんとか入れたが、二分する藩論の中で目的を果たせなかった彦九郎は九州を彷徨う。そして最後は久留米で自刃して果てる。

 「朽ちはてて身は土となり墓なくも 心は国を守らんものを」

この旅の途中に、豊前中津藩で長く滞在している。12月28日から3月19日まで3ヶ月近い逗留だった。

土地の歴史。そこで善行をした人の魂を認め、褒め、それを書き残す。
その土地の優れた人を掘り起こす。親の敵を討った人、農業のやり方を発明した人、洪水を防ごうと工事をした人。神社の歴史。
高山彦九郎は質問し、その土地のよいところを引き出す人だった。だから誰もが彼を信頼する。
それが同志のネットワークとなって、影響を与えていった。

朝廷が王政復古を宣言したのは、自刃後74年後だった。彦九郎の種が花開いた。