台湾での教育に絶大な実績をあげた伊沢修二(1851-1917年)という人物の伝記を読み終わった。

- 作者: 上沼八郎
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 1988/07
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台湾では日本語がいまなお盛んであるのも、伊沢修二の計画と実践の賜物だったのである。
東京高等師範学校校長。体操伝習所主幹。東京音楽学校初代校長。文部省編纂局長。東京聾唖学校校長。国家教育社社長。台湾総督府民政局学務部長。貴族院議員。楽石社社長。
こういう経歴をあげてみると、一人のとは思えないほどの領域で創業にあたったことに驚きを覚える。
信州高遠藩の下級武士の家に生まれた伊沢は出郷にあたって「万難千苦を嘗め尽くし、業若し成らずんば、異郷に客死するもうらむべきにあらず」と志を父に向かって述べている。
15年間にわたって師範教育の開拓者であり、ブルドーザーであった伊沢は、師範教育の目的を知識の獲得と知識の伝達にあると考えて、組織を改変している。
「智戦力闘の処世に要用なる、あたかも車の両輪の如く」不可欠であり、体育は「全国の元気を振作せんことをこいねが」い、体操伝習所を設立した。
音楽教育の面では、「君が代」、蛍の光」、「蝶々」などの唱歌を定めた。「てふてふ、菜のはなにとまれ、、、」で始まる「蝶々」については歌詞にも関与している。音楽は児童の身体の健康と徳育上の効果が大きいことを強調し、音楽教育を独力でもって設計し、構築した。
31歳で文部省に戻った伊沢は森有礼大臣のもとで標準的な教科書の編纂にあたる。
聾唖教育に関与した伊沢は、研究を重ね、聾唖者の矯正に成功し、神業と言われる。
文部省内の意見不統一を公開の席であばいたという理由で非職となった伊沢は、国家教育者で時流をつくっていく。「優勝劣敗の世界において、各国互に相戦ふ武器は教育より外にない」とした。
清国から割譲された台湾において伊沢は「外形を征服すると同時に、別に其精神を征服し、、、、日本化せしめるべからず」とし、国家教育を輸出する。台湾における教育は日本語によっておこなうという基本原則を採用した。台湾の日本化は、「教育者が万斛の精神を費し、数千の骨を埋めて、始めて其実効を奏すべき」とし、土匪の脅威に立ち向かっていく。混和主義による弾力的な現実主義であった。命我見お仕事であった。
貴族院議員になった伊沢は、67歳で没するまで20年間を廟議の人として過ごす。学制研究会を組織し、清国賠償金から教育費として1千万円を獲得する。
伊沢は再び東京高師の勅任校長となるが、激務の中で病に倒れ、やむなく辞職する。時に50歳。
「凡そ天地間に無用の者を助けて置く理由は無い。、、然らば生きてをるといふには其れだけ任務、則ち大命といふものがある筈である。、、唯此大命に従って生活すべし」として伊沢は信仰の人となった。
その伊沢は吃音矯正事業に取り組み楽石社を設立する。没した翌年に開かれた創立15周年記念会では、矯正者総数は5367名に及んだと報告されている。中国での事業も成功し、「神か仙かほとんど人に非ず」とまで激賞された。
強靭な体力、不屈の意志、異常な才幹、緻密な頭脳の独創の人であった。
台湾総督をつとめた弟の多喜男は「精力絶倫の兄は、ほとんだ3−4時間しか睡眠をとらず、次から次へと前人未到の境地を切り拓いて行った」とその超人ぶりを語っている。
67歳で没した伊沢の葬儀には2000人の会葬者があった。
教育に関するパイオニアではあったが、性格が強く、対立を起こし、途中で後任に仕事を託し、自らは新しい課題に挑戦していった。後に大臣にも大学総長にもならなかったのは性格の故だと記されている。