自分史が、日本と世界を変える---「邪馬台」の歴史的役割

同人誌「邪馬台」の冬号の巻頭言を頼まれたので、「自分史」と関連付けて、この同人誌の果たしてきた役割についてまとめてみた。    

自分史が、日本と世界を変える---「邪馬台」の歴史的役割

今年8月に開催された「自分史フェスティバル2014」という二日間にわたった大きなイベントに参加した。昨年の第1回では基調講演、今回は「自分史オンステージ:書籍部門」という自分史を出版した人たちの発表である書籍部門のコメンテーターという役割で、感想を交えながら自分史の意義と意味について講演を行った。
全国で自分史に挑戦している人たち、その活動を応援する企業や団体の展示など自分史が静かに市民権を得ている様子が実感できた。学生向けの自由研究「生まれた日」、祖父母の自分史、写真自分史の紹介、執筆キットの紹介。家系図の作り、パソコン自分史ソフトの体験コーナー、、、など自分史のカタチは実に多彩だった。
昨日まで中津で古文書を読んでいたという慶応義塾の都倉武之准教授の「戦争と自分史--「慶応義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクト」には目を開かれたし、 社会貢献的エンターティナーの松本隆弘さんの「音楽・家族の歌--自分史の原風景」なども楽しむことができた。
苦労の末、書籍に結実させた人たちの自分史の発表を聴いて、日本全国の津々浦々の庶民の人生に対峙する真面目さにコメンテーターの私は深い感動をおぼえた。会場には自分史をテーマとした小説を朝日新聞で連載している作家の林真理子氏がいて取材をしていた。その日の朝日新聞夕刊には1面にこの大イベントの様子と彼女の見解が載っていた。
インターネット時代では日々の記録を残しやすくなった。私の場合も、ブログ「今日も生涯の一日なり」(福沢諭吉先生の言葉をいただいた)は、2014年9月で丸10年毎日書き続けたことになる。これもインターネットのおかげである。
平凡な人生などはない。誰もが波乱万丈の人生を生きているのだ。自分史は、日誌・日記・自分史・自伝・伝記・評伝と発展していくように思うが、どういう形でも書くことに意味がある。
私は大学生に自分史を書かせる授業をしていて、手元には1000本の自分史がある。自分史を書いた若者は、自らの価値観を発見し未来へ目を向ける。
壮年は、自分の来し方を振り返ることによって、誰もが迎えるであろう「中年の危機」を乗り切って欲しいものだ。
さて、そして高齢者はどうか。
内村鑑三は「後世への最大遺物」という書で、人は人生で「何を遺すべきか」という問いを発している。そして、金を遺すか(残した金で病院を建てるなどの慈善事業を行うことができる)、事業を遺すか(土木事業など)、思想を遺すか(著述など)といい、いずれも才能が必要であり、そうでない人は、「高尚なる生涯」を遺せといった。真面目なる生涯を送り、あの人は偉かったという印象と影響を周りに人に与えることがいいという結論であった。

さて、我が「邪馬台」である。
あらためて眺めてみると、小説、エッセイ、旅行記、個人史、短歌、俳句など実に多彩だ。これらは大きな意味で自分史の範疇に入るともいえる。
歴史は個人個人の生き方の集積で成り立っている。日本人の生き方の特徴は孫文の喝破したように真面目さにあると思う。そういった価値観の継承、生活の改善に、広がりつつある自分史運動は貢献できるはずだ。それは、自分を変え、周りに影響を与え、そして日本と世界を変える底辺から始まる運動である。
「邪馬台」という、自立し、地方に屹立している同人誌とその同人たちの半世紀に及ばんとする着実な歩みは、歴史を変える静かな流れの中にあると感じたこの夏の体験であった。