美空ひばり記念館。円谷幸吉メモリアルホール。芭蕉記念館。

必要があって、急遽2つの人物記念館を訪ねることになった。

まず朝一番の予約をして、東京目黒青葉台美空ひばり記念館を訪問した。
ひばり御殿と言われた住居だ。閑静な高級住宅街一角にある。2013年にオープンした。

入口の待合室では神津善行・中村メイ子、ビートたけし郷ひろみの3組のお祝いの胡蝶蘭が目に入った。
美空ひばり記念館」の文字は、中村メイ子の筆だ。
1950年3月の30歳の時にこの地に住み始めたが、ひばりの母・高橋喜美枝の死を契機として1984年に建て替えた建物だ。

天才歌手・ひばり(本名・加藤和枝)は1937年5月29日に横浜で誕生。
9歳で歌手デビュー。
戦後の1952年の15歳の時には「リンゴ追分」を歌い、ひばりブームを起こした。
歌を主として、その後は映画、そしてエテビ、舞台へと活躍していき、昭和を代表する大スターになっていく。
肝臓の病で療養していたが、1988年(51歳)には東京ドームのこけら落しという大舞台で、5万5千人のファンを集めた復活コンサートを成功させた。当日は体調の悪い中、40曲を歌った。
翌1989年6月24日に永眠。享年は52歳であった。女性初の国民栄誉賞が贈られた。

目黒区の条例で50?未満しか見せられないとかで、桜の大木のある庭と、一階の和室・仏間の中しか見学できない。
2階はお客を招いたときに使うホールなど、3階にはサウナなどもあるとのことだ。
車庫には6mの長さの家紋入りキャデラックがあり、記念撮影をしてくれる。
外からリビングを覗くと、「智恥厳翔」という額が目に入った。
和室には「真実一路」の扁額。そしてひばり自身の字で「平成の我 新海に流れつき 命の涙は 穏やかに」という書が飾ってある。

仏間でお参りをする。
国民栄誉賞の賞が飾ってある。
「あなたは戦後の歌謡界にあって真摯な精進を重ね数多くの歌謡曲によって人生の哀歓をうたいあげ歌謡界の発展に著しく貢献されるとともに国民の心に夢と希望と愛を与えました」と受賞の理由が書かれ、宇野宗祐総理の署名がある。平成元年6月24日。

和室の炬燵式のテーブルで、家内とお茶とお菓子をいただきながら故人を偲んだ。

歌は1931曲。
映画170本に主演。
芝居の座長公演は4600回。
コンサート興業では8000万人を集客。

改め美空ひばりの熱唱を聴くと、ぞくぞくする素晴らしい歌声である。

ひばり御殿の入り口には、以下の文字が刻まれている。

 生まれし時に
  この道 知らずとも
 この道を歩み
  幾年月ぞ
 今日涙して
  明日又
   笑おうぞ

以下を購入。
「ひばり伝」:芸術選奨文部科学大臣賞受賞作
「胸に灯りをともす歌(上)」(美空ひばり・著)
美空ひばり 公式完全データブック」

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東京駅から東北新幹線で11時12分発で新白河、そこから乗り換えて須賀川市へ。
円谷幸吉メモリアルホール。

円谷は1940年生れ。陸上自衛隊に入隊。1964年の東京オリンピックの最終日のマラソンで銅メダルを取った円谷幸吉の記念館。
金メダルはアベベ(エチオピア、銀メダルはヒートレー(イギリス)。
2位で競技場に入ってきたが、バックストレートでこのヒートレーに最後に抜かれる。この東京大会では、君原、寺沢が一緒に出場。君原は8位、寺沢は15位。アベベは2時間12分11秒2、ヒートリーハ2時間16分19秒2、円谷は2時間16分22秒2。円谷は初マラソンからわずか7か月しかたっていなかった。
この人は東京大会の後、メキシコ大会を目指していたが、重圧のため自殺する悲劇の人だ。享年は27歳。

地元の福島民報の10月22日は一面で「あっぱれ円谷、高々と日の丸」とある。
夕刊でも円谷の記事で埋まっていたが、「中国、ウラン使用 米原子力委 核爆発実験で発表」という記事や、「フランス EEC脱退を警告 ドゴール大統領」などの記事も目に付いた。

円谷は色紙を頼まれると多くのばあい「忍耐」と書いた。

結婚を考えた女性もいたのだが、上官の反対でつぶれてしまう。
円谷の遺書は話題になった。
「父上様母上様三日とろろ美味しうございました。」から始まり、近親者への謝辞と激励、そして
最後は「父上様母上様 幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母上様のそばで暮らしとうございました」で終わる。

涙なしには読めない遺書である。三島由紀夫川端康成が、激賞している。

「栄光と孤独の彼方へ 円谷幸吉物語」(青山一郎)を購入。
沢木耕太郎の「長距離ランナーの遺書」も読みたい。

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芭蕉記念館。

松尾芭蕉は「おくのほそ道」の600里(2400キロ)の始めに、須賀川で8日間を過ごしている。
46歳だった。1964年9月3日に半年におよぶ旅を終えており、5月には「おくのほそ道」の完成版を携えて帰郷の途中、大坂で10月12日に客死している。大仕事を終えた後の死だった。享年は51歳。

 風流の初やおくの田植えうた
 世の中のみつけぬ花や軒の栗 
 五月雨の滝降りうづ水かさ哉

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須賀川ウルトラマン円谷英二監督の故郷だ。
駅前にはウルトラマンの像が建っている。
タクシーの運転手に頼んで英二監督の実家(今は大束屋)の前を通ってもらった。
この町には円谷という姓が多いのかという私の問いに答える中で、円谷幸吉の叔父さんが円谷英二(1901年生れ)であることがわかった。
須賀川は、幸吉の町であるとともに、英二のウルトラマンの町をもっと打ち出すのがいいと思う。

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忌日。

  • 柳原白蓮:女とて一度得たる憤り媚に黄金に代へらるべきか。

誕生。

−ワシントン:誹謗中傷への最高の返答は、黙って仕事に精を出すことである。
ショウペンハウエル:大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである、

  • 蓮沼門三:心が変われば態度が変わる。態度が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。