岡山の黒住教の本部がある神道山を訪問してきた。
黒住宗忠(1780.11.26-1850.2.25)が創始した黒住教は、1872年(明治5年)に黒住講社の認可、1876年(明治9年)の神道黒住派として、神道教派として初めての別派独立が許される。
この教祖は若い時代に父母の孝行の為に生きながら「神」になろうという大志を抱く。「悪いことを決して行わないようにする」ことで神になろうとし、神か人かといわれるような日々を送る。
父母が亡くなった時に、生き甲斐を失い病にかかるが、このまま志半ばで死ぬことは孝行に反すると悟り、不治の病を克服する。
後に誕生日に太陽がめがけてきて、その日の塊を呑み込んでしまう。これが「天命直授」であり、立教の日となった。
親神である天照大神の子として生まれた人間が神になれる道を明らかにし、人生を肯定し、充実した喜びあふれる一生を送るよう説き続けたのである。極楽は死んだあとで行くところではなく、この世が極楽だと説いた。
目の前のすべてのことを、有りがたくいただいていこうというのが黒住教の修行なのだ。
黒住教は「御日拝」を一番大事な祈りの時としている。朝日を毎日拝むことが大事なことなのだ。
黒住教は、教祖という一人格を通して、普遍的全人類的宗教へと止揚し、発展した。
まることの生活信条
- お日の出を拝もう
- 親を大切に、先祖を敬おう
- 明るいあたたかいことばを使おう
- 人に親切に、とりわけ弱い人にあたたかい手をさしのべよう
- 人のために祈ろう
日本の神道には13の神道教派がある。
出雲大社教が圧倒的に多く信者は126万人。2番目が金光教で43万人、3位が黒住教で30万人。
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「周恩来 十九歳の東京日記」
周恩来『十九歳の東京日記』―1918.1.1~12.23 (小学館文庫)
- 作者: 周恩来,矢吹晋,鈴木博
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郷里では優等生であったが、日本語が向上せず、結局両方とも不合格になる。
この期間は、ロシア革命前夜、対支21ヶ条の要求の直後、パリ講和会議など、世界情勢が混とんとしており、中国はその流れに翻弄されていた時期であり、落ち着いて勉学に励むことも難しかった。また、日本は繁華街の繫栄、映画、芝居、デパートなど大正デモクラシーのさ中にあり、青年の心をゆすぶる文化の香りもあったのである。そういった中で、周恩来は挫折し、故国に帰っていく。この間の日記である。この頃の中国からの留学生は、孫文、魯迅、周恩来兄弟、陳独秀、郭沫若など後の中国を支える要人が多い。
日記は「修学」と「治事」と「通信」に分かれてほぼ毎日書かれている。
修学欄は格言と詩句、治事蘭は行動、通信欄は故国の家族・友人との手紙の往復、こういう構成になっている。
初日には「今日から一日も欠かさず記録し、、」「報恩の志を立て、ひとかども仕事をして、、一生をむざむざと過ごすまい」といった決意が語られている。
その後も「今後は、勉強に没頭する。、、睡眠7時間、勉強13時間半、、、」など決意は語られるが、実際にはそうはいかなかった。
帰国する直前には「日本にやって来たのに日本語をうまく話せず、どうして大いに恥じずにいられよう!、、、官立学校に合格できない、この恥は生涯拭い去ることができない!」と悔いている。
誰もがその才能と知性に感服した、あの周恩来の若き日が、挫折の日々だったとは驚きである。最短のコースで駆け上ったのではないのだ。
帰国後、五四運動に身を投じ、フランス留学で一皮むけて、新生中国の大指導者になっていく偉人の若き日の苦悩を知ることができるのだが、禁欲的な人格と強いで向上心と、紹興人が得意の事務処理の有能さと、そして日中交渉にみえる柔軟さが、時間をかけて歴史的人物を醸成していったのだと感じる。
「名言の暦」11月3日
命日
- 佐治敬三1999:失敗してもええから、全力でやれ。
- 河合良一2008:
生誕