五百羅漢図の旅--狩野一信(増上寺)と村上隆(森美術館)

今日は、五百羅漢図を観る日となった。

増上寺の「狩野一信の五百羅漢図展」。
増上寺は浄土宗の大本山で、徳川家の菩提寺である。
絵師・狩野一信(1816−1863)が10年の歳月をかけて打ち込んだ100幅に描いた500人の羅漢という超大作。
数が多いので、20幅づつ展示しており、今回は第41幅から60幅の展示だった。
頭陀、常乞食、一坐食、家間樹下、、、、。
羅漢とは釈迦の弟子で煩悩を滅し人々を救済するためこの世にとどまっている聖人である。
インドから中国を経て平安時代に日本に伝わって、江戸時代に全国で隆盛になった。
恐ろしげな容貌をしているが、不思議と人気があり、日本全国に羅漢の絵や像がある。
その人気の秘密は謎に満ちている。そういえば、私の郷里の近くの耶馬渓にも羅漢寺という寺がある。
この超大作は後4幅という時点で一信の命が終わったため、20人分は妻の妙安と弟子の一純が完成させた。

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森美術館村上隆の五百羅漢図展」。
海外で高い評価を得ている村上隆は、1962年生れの53歳。
美術館には珍しく、写真もOKであるし、SNSで拡散を希望する旨の掲示もあり、新しい。
500種の人の苦しいみを癒してくれるのが羅漢、。
2011年の3・11が大きな契機となってできあがった作品。
高さ3m。長さ100m。四面。




16羅漢を中心に500羅漢が並ぶ姿は壮観である。絵画における大きさは決定的な影響力を持っていると感じる。
狩野一信の五百羅漢はどす黒い迫力があるが、村上羅漢は、図柄もそうだが、色づかいも含めて、圧倒的な迫力だ。
村上ゲルニカともよばれている。3・11によって無力感を感じ新たな説法が必要だと思った村上の答えがここにある。

狩野一信は10年の歳月をかけたが、村上は数か月でこの大作を完成させている。
全国の美大の学生をスカウトキャラバンし200人以上集め、24時間シフトを組、資料ファイルを100冊、シルクスクリーン4000枚をつくった。
狩野派のような絵師集団の工房システムを20年にわたり進化させてきた集大成の仕組みである。

最後に「馬鹿」という文字が浮き上がる仕掛けがあった。

美術大学という産業の喰い者となった学生たちが、その構造に気づき絶望したり、自らが先生の立場となって、弱肉強食の食物連鎖にのTOPに立とうとして来た、ただそれだけの構造悪によって変化できなかったのです。
 日本美術大学、現代美術産業ノケイハツに一人でも良質なアーチストを世界に出したいと思うのです」

これは日本を意識的にはずし、欧米を中心に活動する村上隆の日本の批判であろう。

「名言との対話」。1月10日。大隈重信

  • 大隈重信「予は朝にあるも野にあるも主義とする所は則ち一なり。」
    • 1月10日は特異日である。明治の元勲・大隈重信が83歳で死去した日であり、その親友であった啓蒙家・福沢諭吉が誕生した日でもある。福沢は20世紀の幕開けの1901年に66歳で往生している。3歳ほど年下の大隈は福沢の死の時点では63歳であったが、それから1922年まで20年を生きている。
    • 大隈は1898年に憲政党を結成総理大臣に就任するが、わずか4カ月で総辞職している。その後、政界を引退し1907年に早稲田大学の創立総長となった。1908年の大リーグ選抜と早稲田の試合で始球式をつとめた大隈の逸れたボールを早稲田の1番打者はわざと空振りにし、それ以降必ず始球式では空振りするという伝統が生まれた。
    • 政界復帰した大隈は1914年には第二次大隈内閣を組織し、対華21ヶ条の要求をするなどして、1916年に退任する。その時の年齢は78歳余で歴代最高齢であった。この事実はもし福沢が長生きをしていたら、どのような業績を打ち建てただろうかと考えさせる。
    • 政治の表舞台と民間の裏舞台でそれぞれ特筆すべき業績をあげた大隈は、その姿勢は終始一貫していた。日本の、社会の、現在と将来にわたる問題の解決である。企業や官庁などの組織では現場にいる時の問題意識を中枢に職を得たときにも持続する人は少ない。その役割に応じた言動をとる人の如何多いことか。我々は大隈のこの言葉をかみしめるべきである。