2015年のブログを3冊に製本−−11年目

ブログを書き始めたのは2004年9月28日からで、本日で連続記録は4169日となった。
毎年、1年分を本の形にしている。
今年は「はてな」のサービスが終了してるので、やむなく業者を探して本になった。
下の右端の大きな3冊が2015年版である。

上段の左から順番に2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年。
下段の左から、2012年、2013年、2014年、そして2015年。

2015年分を改めて眺めてみると、1年という歳月も旅であるとの想いを深くする。
日々を薄皮のように重ねてきたが、気がつくとその11年間の日々がこのような厚みを持ってくる。
人は人生の旅人であり、人生のお遍路であり、そして人生の巡礼者である。

「名言との対話」2月27日。本阿弥光悦

  • 心が凝り固まっていては見えないものも、力を抜いて素直に見ると、いろんな顔が現れてくるだろう。心を開いて受け止めるなら、この世のすべては美しい
    • 本阿弥光悦琳派の創始者の一人。茶の湯、書・陶芸など諸芸に優れていた。蒔絵制作も指導した。2月27日、光悦は不帰の人となった。
    • 元和元年(1615年)に徳川家康より与えられた鷹峯に本阿弥光悦が移り住んだ。東西二百間あまり、南北七町の原である。光悦はここに草庵を建て本阿弥一族や芸術仲間、弟子、職人衆と共にこの地に移り住み、一時は55軒もの屋敷が並ぶ芸術村を作った。
    • 国立民族学博物館の創始者・梅棹忠夫先生にお会いしたとき、誰に近いかと聞くと「本阿弥光悦にも近い」と答えた。書道、絵、茶道、陶芸、漆芸などの広汎な諸芸術の采配者、美のプロデューサーとしての光悦に近いという。梅棹は万博の跡地に建った民博を率いるにあたって、知のプロデューサーとして自分の役割を意識していたのだろう。知の「光悦村」の建設である。
    • 私たちは意味のない、無駄な力を肩いっぱいにみなぎらせて事にあたることが多い。しかし、真正面から目を見開いて素直に見ると、画一的な人々の顔も、個性的に見えてくる。また、かたくなな心を開いて世の中に起こることを感じるならば、すべてが美しく見える。光悦はそういう世界を生きていたのだろう。力を抜いて、心を開いて、この世をみなければ、生きた甲斐ががない。