非常勤講師養成講座一日体験講習を実施。

非常勤講師養成講座一日体験講習を実施。

  • 多摩大学・九段サテライト。
  • 9時から16時半
  • 橘川さんの挨拶。
  • 久恒啓一「大学は今、どういう講師を求めているのか」:1時半15分。
    • 私の立ち位置。大学改革の例として多摩大改革。大学はどこに向かっているのか。大学改革の盲点。大学非常勤講師という仕事。どういう講師が求められているか。アドバイス。

(アンケートから:外圧を利用しての学内改革という事例が心に残りました。大学の盲点は非常勤講師!というのは目からウロコ。、、、)

  • 林光「非常勤講師概論・講師とはどういう仕事か」
    • 明海大、埼玉大、函館未来大、東大などの体験。反面教師(毛沢東)。人生充実。収入。(横断的に見ている人の見聞は貴重だ)

  • 仁上幸治「非常勤講師への道・講師になるための技術と方法」
    • 動画はツカミにいい(現物再現力・細部表現力)。落語の枕に学ぶ。イマドキの学生像。情報リテラーシー。本は読まない。集中力維持時間は15分。意外性。グループ競技は好き。級友の目を恐れる。毎回何かを。動画は知っているもの。人脈。SNS発信。給料バンク。JRECーINのマッチングメール。みんなのキャンパス(55万人84万件)。鬼仏表。情報の達人DVD全3巻(10万円)。(非常勤講師のFD研修をどうするか)
  • 久米信行「私の講師体験」:残念ながら、学長との面談があり講義は聴けなかった。
  • 懇親会。インターゼミとの掛け持ちなので、ちょっと顔を出す。

  • インターゼミの合間を縫って講座のスタッフたちと懇談し、受講生の反応を聞く。反応のまとめを、図解、、。

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「名言との対話」4月9日。武者小路実篤

  • 「龍となれ 雲自づと来たる」
    • 武者小路実篤という名前は、白樺派という美しい名前とともに私たちの世代にとっては、あこがれの対象だった。1975年(昭和50年)に90歳で没するまで「私の美術遍歴」を最後に著書を刊行し続けているから、私が高校生から大学生の間に、同時代にこの人の本を読んでいたということになる。23歳の処女出版「荒野」から数えて67年間、作品は6000というから、長寿で仕事を続けているということは凄いことだと改めて感じた。最初の単行本は1908で、1959年の75歳時点で50年経っているが、その時点で、戯曲117編、短編小説131編、中編ないし長編26編、伝記小説9編、感想、随筆、詩集など93編、著書の総数は500冊とある。4月9日に人生の幕をおろした。
    • 武者小路実篤 この人は小説を書いたが小説家と言ふ言葉で縛られない哲学者思想家乃至宗教家と云ってもそぐはない そんな言葉に縛られないところをこの人は歩いた」という中川一政が書いた「この人」という詩がよくこの人の歩みをあらわしていると思う。
    • 子爵であった父・実世は実篤が数え年の3つにならないうちに「この子をよく育ててくれる人があったら! この子は世界に一人という人間になるのだが。」と言ったという。この大それた予期を知らされた実篤は、「陸軍大将になっても始まらない」、「総理大臣になると思ったこともあったが、それも総理大臣が最後の目的ではなかった。自分はもっと大きい空想家だった。伊藤さんや山縣さんになっても始まらないと思っていたのだ」そして、「アフガニスタンの王様になるくわだてをしたものだった。」。「世界に一人という人間」「世界に一人というおもしろい人間」であり、その人間が様々の形としてこの世で仕事をしたということだろうか。
    • 70歳で越した「仙川の「家」の跡は、実篤公園となっており、記念館でこの人を偲ぶことができる。この家での生活は20年間も続いたのである。
    • 武者小路実篤の一生をみると、多くの人を巻き込みながら新しき村などの新企画を断行し、常に世間の耳目をひいている。アフガンの王様にはならずに、風雲を呼ぶ龍となったのである。