葉室麟「霖雨」−−広瀬淡窓の日田・咸宜園の物語

葉室麟「霖雨」(PHP文芸文庫)を読了。

霖雨 (PHP文芸文庫)

霖雨 (PHP文芸文庫)

天領の豊後日田で、私塾・咸宜園を主宰する広瀬淡窓と家業を継いだ弟・久兵衛をめぐる物語。広瀬兄弟の清冽な生き方を貫こうとする姿を描く。

24歳から50年に及ぶ講業。養子や弟子が引き継ぎ入門者は5千人を超えた。高野長英大村益次郎大楽源太郎上野彦馬などの人材を輩出。

広瀬淡窓という人物の肉声と生身の姿を垣間見ようとして手に取った小説で、葉室麟
という優れた書き手にも感心があり手に取った。

  • 淡窓:「中庸」に「君子の道は淡にしてしかも厭わず」。淡は君子としての在り様を示す。窓は書斎の意。
  • 咸宜園:「詩経」の「玄鳥篇」に」「殷、命を受くること咸宜(ことごとくよろし)し、百禄是何う(これにならう)。「三奪」、年齢・学歴・身分を奪い平等とする。身分の差別無く塾生を受け入れるという名前である。すべての人は使命を背負っており、その生は尊ぶべきものだ。
  • 朝食の前に書に目を通す。もっぱら詩文。少しづつ身のうちに力が充実してくる。生きる希望をもたらすのは詩である。
  • 「鋭きも鈍きもともに捨て難し 錐と槌とに使いわけなば」
  • 「約原」と「迂言」
  • 「万善簿」。一日の行動や心事を、義と欲、経と怠に分け、善行を功、悪行を過とする。振り返って正しく行えたと思えば白丸、過ったと感じたら黒丸をつける。
  • わたしは一介の凡愚だ。ただ、焦らずに、歩みを止めることのない凡愚であろうとは思っている。
  • 淡窓のつくった有名な詩。

 道(い)うことを休めよ 他郷苦辛多しと  
 同袍友有り 自ずから相親しむ
 柴扉暁に出づれば 霜雪の如し
 君は川流を汲め 我は薪を拾わん
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「名言との対話」4月18日。朝倉文夫

  • 「『百』扱ったならば、卒業というか、入門というか、正しく一段階を得て、人生四十にして立った境地である。それからほんとうの途が発するのであるが、またそれで初めて一人前の域に入ったときでもあると思う」
    • 彫刻家朝倉文夫は、1883年に生まれ、1964年4月18日に没した。文化勲章受章者。
    • 大分大野郡の記念館で最初に目がつくのが二人の裸婦像だ。このモデルは娘の朝倉摂朝倉響子で、当時モデルになってくれる女性はなかなか見つからなかったため娘をモデルにしたという。摂は舞台芸術家で著名な方で、妹の響子は彫刻家。朝倉摂さんとはビジネスマン時代に一度仕事で縁があった記憶がある。
    • 美校在学中「一日一点」の塑像作成を日課とした。「一日土をいじらざれば 一日の退歩である」という言葉も残した。「自然な姿を自然なままに」という写実主義で、一度もヨーロッパに行かなかったため独特の作風が生まれた。朝倉によれば「彫刻とは自然を立体的に見る学問」である。
    • 朝倉は3万冊以上の蔵書を持つ読書家でもあった。。「天才はこの大器晩成を指すのであって、天才なる賛辞をこの早熟の未完成品に与えるべきではない」「 私は、誰々曰く式の話がきらいで、総ては体験に依る話をする主義です」
    • 「今までに約四百余の肖像彫刻をつくっている。世界で一番だろう。ロダンは120くらい、ミケランジェロが80くらい、日本では100つくった人はいない」と言い、一生の仕事として、明治の元勲の像を、残らず作って、後世に遺して置きたい念願を抱いていた。大隈重信井上馨小村寿太郎島津斉彬島津久光、忠義の三公、福沢諭吉、渋沢栄三、団十郎菊五郎高島屋犬養毅、、、、。
    • 「百」という数字には意味がある。一つのテーマについて百を集めると、卒業したという小さい感慨を持つようになることがある。しかし、その段階でやめるということはなく、その先に積み重ねるようになる。百とは実は入門を許されたことなのだ。