荻阪哲雄「社員参謀」(日本経済新聞出版社)を読了。
- 作者: 荻阪哲雄
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
- 発売日: 2016/06/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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組織開発の暗黙知を、実践で使える組織論の形式知に変えるという難しいテーマに挑んだ書だ。
著者の今までの膨大な経験が織り込まれている。
登場人物は、DJ社取締役・姿晋介、DJ社社長・檜垣真吾、DJ社組織開発室・本城恵美、外部コンサルタント・高杉正人。
私は主人公の姿晋介を自分に見立てて読み進めた。
ビジネスマン時代の最後に遭遇した全社プロジェクト(全社の改革)の中心に座って切羽詰まったことを思い浮かべながら姿の動きや気持ちに寄り添いながら楽しく読んだ
ライバルの檜垣は、当時の主流派。本城は部下たち。高杉は支援してもらったコンサルタント。
こういう見立てで、当時を思い出しながら、内容を吟味してみた。
この著者は「バインディング・アプローチ」と説明している理論を小説仕立てで展開している。
トップダウンとボトムアップを統合する方法である。
この理論には、大事なキーワードがいろいろとち散りばめられているのだが、数年間血みどろの戦いを経験した者として改めて当時を振り返ると、理論を知らずに、その通りに実践したのだというように思った。
当時の私は「トップと現場を握って改革を推進しよう」と考え、大海原で航海術を編み出しながら目的地にたどり着いた。社長直轄の組織であり、お客様の声を誰よりも深く分析し、サービス現場とのコミュニケーションを密にしながら、全社を引っ張っていった。当然のことながら、様々な困難に巻き込まれたが、良きチームワークを土台に大組織の改革という仕事に挑んだ。
このプロジェクトは、著者によればバインディング・アプローチであったということなのだろうが、それを現場で自分で開発しながら仕事をしたということだろう。
その立場からこの書を読むと思い当たるフシが多い。ややきれいに成功しすぎの感もあり、この書を読んでそのまま実行できるかという問題はやはり残るが、この考え方には担当者は示唆を受けるだろう。
ビジネスマン時代、私は自分を「参謀」として位置づけていた。司令官よりも参謀という役割に関心があった。労働組合対策担当、メディアに向けての広報マン、大組織の内部広報の責任者、そして全社改革のキーマンというキャリアで、参謀としての実績を重ねた。
そういう視点からみると、この「社員参謀」というこの書のタイトルにも納得がいく。
自分の属す息苦しい組織を改革しようと志す人には、この応援歌の一読を勧めたい。
「名言との対話」7月20日。岩倉具視。
- 「時日と忍耐とは扶桑をして絨毯に変ぜしむ」
- 維新の英傑の中で公家として活躍した岩倉具視(1825-1883年)は新政府において参与、議定、大納言、右大臣等をつとめ、1871年(明治4年)特命全権大使として大使節団を率い欧米を約1年10か月にわたって視察する。
- 岩倉具視は、皇女和宮の将軍(家茂)家降嫁など公武合体を掲げて尽力したが、倒幕急進派の誤解を受け弾劾され、官職を辞し剃髪のうえ洛中より追放され、11代前から縁のあった地に幽棲する。1862年から1867年まで5年四余を過ごす。「終日掃除ノ処古家ニシテ実ニ住居ナシ難し、兎ニ角落涙ノ外ナシ」と日記にあるように、男盛りの38歳から43歳までを過ごした場所である。ここには、大久保利通、中岡慎太郎、坂本龍馬ら明治維新の志士たちが訪問し、王政復古に向けて密議を行った。
- 征韓論に敗れ下野した高知県士族武市熊吉ら9人が、征韓論論争を主導した右大臣の岩倉を襲った赤坂喰違事件で重傷を負い一命をとりとめたときの衣服・携帯品が展示されている。眉の下と左腰に負傷したが、皇居の四ツ谷濠に転落し襲撃者たちが姿を見失ったため、一命を取り留めた。命をはって維持sんの大業を断行したのである。
- 5年余の幽棲をじっと耐えてその後に大輪の花を咲かせる岩倉は、冒頭の言葉を吐いている。長い年月の忍耐は、人間を大きく飛躍させるということを、自身の強烈な体験から一般化したのだ。その岩倉が言うから説得力がある。不遇の時期をどう過ごすか、それが問題だ。