「映画監督・小林正樹 生誕百年」(世田谷文学館)

世田谷文学館で「映画監督・小林正樹 生誕百年」が開催中だ。

小林正樹は1916年小樽生まれ。世田谷が終焉の地。
19歳、早稲田高等学院に入学。父の従兄妹の女優・田中絹代邸の隣に転居。
21歳、学院3年の時に会津八一の英語の授業で奈良や仏像の話に感銘を受ける。
22歳、早稲田大学文学部哲学科に進み、会津八一に師事し、東洋美術を学ぶ。
25歳、早稲田大を卒業し(卒論「室生寺建立年代の研究」)松竹に入社。
26歳、1942年1月入隊、満州へ。
29歳、宮古島で終戦
30歳、復員。松竹大船撮影所に復職。

31歳から木下恵介監督について助監督をつとめる。
1952年、36歳で「息子の青春」で監督デビュー。
その後は、「日本の青春」「壁あつき部屋」「切腹」「上意討ち」「怪談」「人間の条件」「東京裁判」「化石」「燃える秋」「食卓のない家」など名作をつくり、1991年のカンヌ国際映画祭ではチャプリンと並んで世界10大監督に選ばれる。小林は生涯で22本の作品を残した。寡作であった。

会場を回ると、恩師・会津八一との交流の長さと深さを感じることになった。
23歳、会津八一引率で2週間の奈良大和研究旅行の写真がある。
そして、二人の手紙の往復がある。
「将来の事は東京の地を踏んでから、ただただ先生の学規にそくした生活に一生をささげる覚悟で居ります」
この学規とは、会津八一が弟子と認めた人にだけ書きおくる書である。
「1。ふかくこの生を愛すべし 1.かへりみて己を知るべし 1.学芸を以て性を養うべし 1.日日真面目あるべし」
小林はこの学規を座右の銘として、深く心に刻み、学規に恥じない映画を創ろうと歩んだ。

「先生は大変な粗食家である」と小林は述懐している。食べるものを惜しんで中国の原書や美術品を買い求めたのだ。

会津八一の教えを自身の美意識の根幹とし、「敦煌」をつくった。

1996年、小林は監修者として「会津八一の世界 奈良の仏たち」の制作を開始する。この作品は10月13日、NHKハイビジョンで放送される。
しかし、小林は10月4日に自宅で永眠していて、作品を味わうことはできなかった。

会津八一と小林正樹の師弟関係の深さを思うとき、坪内逍遙会津八一の師弟関係を思い出す。
坪内逍遙会津八一、小林正樹と、精神が受け継がれながら歴史が作られていくのだ。

また、お世話になった田中絹代に関しても、「田中絹代賞」の実現や記念館(下関)の設立に力を尽くしている。

代表作「人間の条件」の五味川の原作(上中下)を買った
「自分の意志に反して戦争に協力するという形でしか、あの時代を生き延びる事が出来なかった不幸な経験を梶という人間像の中でもう一度眺めてみたかった」


「名言との対話」8月10日。江國 滋。、

  • 「おい癌め 酌みかはそうぜ 秋の酒」
    • 江國滋(1934年8月14日 - 1997年8月10日)は、東京出身の演芸評論家、エッセイスト、俳人。俳号は滋酔郎。日本の演芸評論家、エッセイスト、俳人。東京出身。慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、新潮社に入社。『週刊新潮』編集部員として勤務したのち退社。雑誌『寄席fan』編集に関わったのち文筆活動に専念した。俳人としても活躍し、日本経済新聞の投句欄「日経俳壇」の選者を長年務めた。作家江國香織の父。
    • JAL時代に組織一の文化人であった上司(柴生田)に連れられて、俳人の集まりなどにもよく顔を出した。江國先生と3人で酒を飲んだとき、すてきなカードマジックを見せてもらったことがある。俳句のハイク化に欠かせなかったジャック・スタムが亡くなり、江國先生の涙とわななきに接したことがある。
    • さて、冒頭の俳句は、癌に冒された江國が、吐いた名句である。62歳という若さでこの世を去ったが、その前に酒好きだった江國がその癌を友人として捉え、一緒に秋の夕べをしんみりと過ごそうという凄みのある句だ。名句は山ほどあるが、これが最高傑作だろう。

今日の収穫
落合博光「一番苦しいのは、同じことを毎日続けていくこと。マンネリと言われるかもしれないが、それが大変なんだ」