浅田次郎「パリわずらい 江戸わずらい」(小学館文庫)を読了。
日本航空の機内誌に長く連載しているユーモアエッセイをまとめた第三弾。
搭乗するたびにいつも読むのを愉しみにしている。それがまとまったので楽しく読んだ。内容は旅もの、ペンクラブ関係、自虐ネタ、食い物談義、、、など多彩である。この連載は百数十回、十余念続いている。
浅田によれば、小説家は嘘つきだが、随筆家は正直者であるから、この二つを使い分けるのはジキルとハイドのような二重人格ということになる。
内容ではなく、ベストセラー作家で日本ペンクラブ会長でもある同世代の浅田次郎の日常と習慣と考え方が、このエッセイでうかがえる。以下、そこを拾ってみたい。人間、浅田次郎の姿がみえてくる。
旅慣れるほどマイナス思考がたくましゅうなり、いきおい少しずつ荷物が増える。
年齢とともに時差ボケがひどくなった。
2008年に狭心症の治療を受ける。
若い自分から一夜漬けの王者である。
浅田ハゲ次郎という陰口は耳にしている。しかし浅田デブ次郎とは呼ばせたくない。
地方出張時にはかならず朝食前にホテルの周辺を散歩する。
家は都心から離れているのでスケジュールは一日にまとめる。
東日本大震災後は、怖くて何も書けず、何も語れなかった。文学の無力を痛感。
社交的な人物と見せながら根が暗い。
引っ越しは18回。
小説家という職業はまじめに働けば働くほど運動量は削減される。まじめな小説家はデブだ。
一日はまずスーパーマーケットの折込み広告の精査から始まる。
旅ジイ
海外のホテルには30日、国内はその倍くらい泊まっている。
よいものを選んで長く使う、がモットー。
夢をみる名人。夜中にトイレに立ち、ベッドに戻った後はちゃんと続きを見る。
月に何度かは神田の古書店街で過ごす。うまい昼飯を食う。
理解力と応用力は決定的に欠くが、記憶力には自信がある。
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準備中の「団塊坊っちゃん青春記」の校正が終わった。大学入学から結婚するまでの青春期の右往左往と逸話を書いた青春記だ。漱石の坊っちゃんと、北杜夫のマンボウ青春記を意識している。今年度中には書物になる。これは創設を予定している多摩大出版会の第一号作品になる。
「名言との対話」1月2日。斉藤秀三郎。
「語学修得は第一に多読である。分からんでもよろしいから無茶苦茶に読むのである。
元来人生は分からんことばかりではないか。それでも広く世を渡っているうちには処世の妙諦がだんだんと会得されてくる。語学もこれと同じである。広く読んでいるうちに自然と妙味が分かり、面白みが出て来て、しまいには愉快で愉快でたまらなくなるのだ。」
斎藤 秀三郎(1866年2月16日(慶応2年1月2日) - 1929年(昭和4年)11月9日は、明治・大正期を代表する英語学者・教育者。第一高等学校教授。宮城県仙台市出身。
斎藤秀三郎の英語勉強は常軌を逸していた。自分の研究は戦争だと語っており、寝ても覚めても暗記にいそしんだ。斉藤和英大辞典の「犠牲」の項には、自分は自国語を犠牲にして英語を学んだと説明していた。
斉藤の仙台英語塾には、吉野作造も参加したが、あまりの短気に恐れをなして一日で辞めてしまったというエピソードも残っている。訳語を求める一徹な姿勢は日本の英語教育に大きな影響を与え、詩人の土井晩翠がバイロンの翻訳をしたのは斉藤の影響だった。
語学修得は多読がいいと斉藤は言う。どのような分野でも量をこなさなければものにはならない。量をこなすと興味が湧いてくる。奥の深さが分かって面白くなってくる。そして知識が広くなり洞察が深まってくると、学習辞退が愉快になってくる。何ごとにも斉藤秀三郎のような取り組みをすればいいということはわかる。