文藝春秋2月号に「同級生交歓」登場高校ベスト30という記事が出ている。
この人気記事は1956年からすでに60年。2700組、9000人が登場している。
社会に出て一定の知名度や肩書きをもって現役で活躍している人々が対象となっている。私もファンなので必ず目を通している。
古井由吉、塩野七生、庄司薫、尾高修也。逢坂剛と武藤敏郎。フランキー酒井、小澤昭一、加藤武、仲谷昇。堤義明と倉本聰。岡本太郎と藤山一郎。坂本龍一と塩崎恭久。野田秀樹と藤本隆宏。、、などなかなか興味深い。
すべて名門の学校だ。大分では上野丘高校が5回登場している。
中津北高校でも編集部に働きかけをしているが、まだ実現していない。
「名言との対話」1月10日。高山樗牛「己の立てるところを深く掘れ。そこには必ず泉がああらむ」
高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、 1871年2月28日(明治4年1月10日) - 1902年(明治35年)12月24日)は明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。
夏目漱石が年齢が4つ下の高山樗牛を「高山の林公」呼ばわりしてライバル視したことでも知られる。日本や中国の古典に造詣が深く、また欧米の思想にも通じていた。その文章は美文体で、文豪と呼ばれた。主張の変遷が激しい人物だった。鴎外、逍遥などと派手な論争を繰り広げた。樗牛の生涯は論争の連続だった。
1900年には文部省から漱石らと同時期に美学研究のための海外留学を命じられるが、洋行の送別会後に喀血し、肺結核の療養生活に入り翌年に留学を辞退した。1902年文学博士。死去。
「天にありては星、地にありては花、人にありては愛、これ世に美しきものの最たらずや。
「偉人と凡人の別は一言にして尽くすべきのみ。彼は人生を簡単にする者なり。此は人生を複雑にする者なり。」
「大いなる人となるの道は唯二つあるのみである。己の小さきを悟るのは其の一つである。己の大いなるを信ずるは他の一つである。」
30余年という短い人生であったにも関わらず大いに活躍し、そして毀誉褒貶の多い人物であった樗牛の言葉は美しく、かつ深い目を感じさせる。小さきを悟り大いなるを信じるのが大いなる人への道であるなど、名言という視界からは採るべき言葉は多いが、冒頭に掲げた言葉はどの時代にも通用する真実を言い当てている。足下を掘ろう。
今日のオーディオブック(febe)
吉村昭の講演「空襲の記憶」を聞く。丹念な事実調査に基づく確固たる文章で小説を書く吉村昭が講演の名手であるとは知らなかった。ユーモアあふれる講演。
「副学長日誌・志塾の風170110」
多摩キャンパス
秘書と打ち合わせ
森島入試課長:センター入試
杉田先生:学部長業務の引き継ぎと意見調整。高野課長。
奥山先生:T-Innovation
山本さん:T-Studioでの収録打ち合わせ。安藤百福・本多静六。伊丹十三・公文公。
湘南キャンパス
安田学部長:ホテル講座の件。
学部運営委員会:安田学部長、渡辺教務委員長、橋詰学生委員長、堂下就職委員長、太田入試委員長、清水事務長、池田教務課長。
アクティブラーニング・プレゼミ担当の非常勤を採用予定。
ホームゼミ:3分の2の教員が担当。2年生の半分強が入ゼミ。
オープンキャンパスなど経営情報学部と日程を合わせる。
私から:ホテル講座(秋学期)。教学マネジメント会議の立ち上げのお願い。
アセスメントポリシー公開の機関決定。、、