岡村吉右衛門展(多摩美術大学美術館)

岡村吉右衛門展(多摩美術大学美術館)を先日訪問した。

 

岡村吉右衛門(1916-2002)は、民芸運動創始者柳宗悦と染色工芸科芹沢けい介に師事した染色技法研究の第一人者だ。太鼓から現代までの人類文化史をたどり、最後に一刀一刀紙を切って(彫って)いく独自の「型染版画」のスタイルを完成させた。

21歳の八丈島から始まり沖縄、北海道、そして海外では中国、インド、東南アジア、中南米、アフリカなどを舞台に徹底したフィールドワークを行い、染色はいうにおよばず、繊維、製紙、陶磁器、民具等の工芸研究を続けた。

岡村は一つの土地に長期間古紙をすえ、現地の人々と同じ目線で調査を行うというフィールドワークの方法をとっている。研究者と制作者の目をもってみるのである。

「広義の汎神論の蝦夷絵(えぞえ)は、たんに物珍しい風俗絵としてではなく、文化の根源を振り戻す努力とその夢、その徴(しるし)としたいとわたしは希う」

岡村は万物生命教ともよぶべき汎神論やあらゆる宗教を超えた十二星座に到達する。これの蝦夷絵の延長であった。蝦夷絵は芹沢のデザインに大きな影響を受けている印象を持った。

岡村は蝦夷文化を「続縄文文化」ととらえている。そして汎神論の蝦夷絵に加え、吉祥文であり具象(現実)と抽象(空想)を往復する絵文字も続縄文文化ととらえている。自分の仕事は「旧きを耕し、文化土壌を活性化させ、新しい種を播き苗を育てる話し合いの和の場でありたい」と述べている。

十二星座シリーズは古代バビロニア占星術に由来するが、蝦夷絵、文字絵などの型染め版画による集大成で岡村の最高傑作である。

制作と研究を同時にすすめる岡村吉右衛門は、素晴らしいフィールドワーカーであり、優れた文献研究家でもあった。作歌と万葉研究の同時進行という優れた歌人たちと同様に、二つの目を持ち、進んでいくことの凄みを感じる。

 

 「副学長日誌・志塾の風170220」

ラウンジ

  • 高野課長
  • 金先生:教育学術新聞に高大接続アクティブラーニングの記事。「付属高と高大接続研究--多摩大が創設・AL技法の研究・開発」「、、、、高大の教職員が一緒に議論してこそ初めて気付かされる点が多々あった。会議最後に発案者である久恒啓一副学長が、「大学で学ぶこと、社会で役立つのは、問題解決力である。そこで得た方法論や現場に飛び込む勇気が大切である」と述べ、締めくくられた。、、、(文責・連絡先:金美徳教授kim-m@tama.ac.jp)

 一般入試二期:本部詰め:

  • 下井先生:研究委員会
  • バートル先生:研究紀要
  • 安田学部長

 ラウンジ

  • 金先生・斉藤S先生:教務委員会の構成

 

「名言との対話」2月20日。石川啄木「詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ」

石川 (いしかわ たくぼく、1886年明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)は、日本歌人詩人

函館近郊の大森海岸沿いにある石川啄木が和服姿で頬杖をついてもの思いにふけるブロンズ(青銅)像がある。歌集「あこがれ」を持ち、下駄履きの袴姿である。この小公園は海岸沿い、道路沿いに長いのだが、ちょうどカモメが飛ぶルート上にあるようでひっきりなしにカモメが啄木の頭の上を優雅に飛んでいく。
「潮かおる北の近辺の  砂山のかの浜なすよ  今年も咲けるや」
「砂山の砂に腹這い初恋のいたみ  遠くおもひ出ずる日」

 この小公園の脇に「函館記念館 土方・啄木浪漫館」が建っている。この記念館は株式会社味の豊の設立二十周年記念で建立したものである。2階が啄木、一階が土方歳三関係の資料を展示してある。小劇場があり、故郷の渋民村の代用教員だった時代の石川啄木の先生姿と数人の子供たちのほぼ等身大の人形姿をした人形が動くというしかけである。啄木はなかなかの好男子である。その啄木の紹介で短い映画をみることができる。
啄木は三行歌を発明し、その器に多くの名歌を盛り込んでいる。
「頬つたふ
 なみだのごわず
 一握の砂を示しし人を忘れず」

「はこだての青柳町こそかなしけれ
 友の恋歌
 矢ぐるまの花」
「東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる」
「しらなみの寄せて騒げる
 はこだての大森浜
 思ひしことども」
啄木が愛した大森浜は、やわらかい風、潮騒、白い砂、カモメの飛翔、そして子供をはさんで両親が左右で手を握っている姿など、印象に残る浜だった。啄木の生涯は短く26歳でこの世を去っている。

 岩手県の啄木記念館。書籍は現地でしか手にはいらないものが面白い。近親者の書いたものや周辺者の感想などが面白い。宮沢賢治記念館と比較すると、石川啄木記念館は粗末だ。啄木は借金を踏み倒す、浮気はする、友人の金田一京助に迷惑はかけるで地元の評判はあまり芳しくなかったことが伺われる。

 盛岡中学時代には「あめつちの酸素の神の恋成りて、水素は終に水となりけり」と詠んで皆を驚かせている。

ピカソが絵を描くのと同じように、啄木にとっての詩は日記であった。詩は短いから人々の印象に強く残る。「俳句はやっぱり「小さすぎ」ないだろうか」と言ってた寺山修司が晩年にはもっと俳句をやっていればよかったと後悔したように、短詩は長い時間を生き抜いていく。26歳の短い人生であった啄木が書いた日々の日記は長い命を保っている。