万葉歌碑の旅

那須からの帰り。東北自動車道下りの佐野サービスエリアの万葉歌碑。

下野(しもつけの) 三毳(みかも)の山の 小楢(こなら)のす ま妙(ぐは)し児ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ

(作者)下野国の相聞往来の歌。民衆の中で歌われていた恋愛の歌。

(大意)(下野の三毳山の楢の若木のような)美しいあの娘は一体誰の妻になるのだろう。

「小楢(こなら)」はナラの若木。「のす」はナスの上代東国方言で、ノヨウナ。「ま妙(ぐは)し」は美シイ。「笥(け)」食器のことで、妻となることを意味する。

万葉かたくりの里、佐野サービスエリアで 万葉歌碑をみた。万葉歌碑の旅も面白い。

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 お彼岸の墓参り。

もくれんの花がきれい。

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 47回忌までの数字は割り切れない。心が割り切れないのだろう。

50回忌でやっと割り切れるということか。

私の父の13回忌が今年で母の卒寿祝いと同じ。23回忌は94歳。となると、10年後の27回忌には母は百歳ということになる計算だ。

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 「名言との対話」3月19日。小野田寛郎「 (世論では)私は「軍人精神の権化」か、「軍国主義の亡霊」かのどちらかに色分けされていた。私はそのどちらでもないと思っていた。私は平凡で、小さな男である。命じられるまま戦って、死に残った一人の敗軍の兵である。私はただ、少し遅れて帰ってきただけの男である」

小野田 寛郎(おのだ ひろお、大正11年(1922年3月19日 - 平成26年(2014年1月16日)は、大日本帝国陸軍軍人実業家。最終階級予備陸軍少尉旧制海南中学校久留米第一陸軍予備士官学校陸軍中野学校二俣分校卒。情報将校として太平洋戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年の時を経て、フィリピンルバング島から1974年日本へ帰還を果たした。

昭和20年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったため戦闘を継続し、情報収集や諜報活動を続ける。フィリピン政府を「アメリカの傀儡政権」と解釈した小野田は日本が繁栄している事は知っていた。士官教育を受けた小野田は、捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で情報を得ていたが、日本はアメリカ傀儡政権であり、満州亡命政権があると考えていた。かつての上官である谷口義美陸軍少佐から、文語文による山下奉文陸軍大将名の「尚武集団作戦命令」と、口達による「参謀部別班命令」で任務解除・帰国命令が下り、ようやく降伏する。

大きく変貌した日本になじめなかった小野田は帰国の半年後に、次兄のいるブラジル移住して小野田牧場を経営する事を決意。日本帰国後に結婚した妻の町枝と共にブラジルへ移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。「祖国のため健全な日本人を育成したい」と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰。

「何をやるにも3つの『ど』。努力、度胸、度量」

「貧しくたっていいじゃないか。乏しくたっていいじゃないか。卑しくなければ」

何がないからできないというのは自分の能力のなさだ、自分の不備不明の致すところと心得よと中野学校で教えられていた小野田は、あらゆる手段を講じて生き延びた。小野田は自らを平凡で、小さな男であるというが、30年近く戦い続ける意志と能力を形づくった教育というものの影響力の大きさを思わざるをえない。