「没後20年 司馬遼太郎展」(そごう美術館)

横浜でJAL時代の友人と会う前に、そごう美術館で開催中の「没後20年 司馬遼太郎展」をのぞく。

戦争体験で「日本とは何か、日本人とは何か、という疑問を解くために書き始めた膨大な小説群。戦国の「国盗り」の物語から、幕末維新の「国造り」の物語、そして「この国のかたち」への問いとなっていく。「変動期」を描いたその仕事は、司馬史観と呼ばれるまでになった。

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 以下、ピックアップ。

黒田官兵衛「友人にもつならこういう男を持ちたい」

石田三成「利害の世に、異常な正義感をもってひとり立っている」

維新回天「主人公に『志』という時代のエッセンスを見いだした」「それがいかなる志であっても、志は男が自己表現をするための主題である」

勝と竜馬「諸事、この眼で見ねばわからぬ」

高田屋嘉兵衛「鰊こそ、菜種油となって夜を照らし、木綿となってひとびとに寒をふせがせるものとなるのだ」

土方歳三「男は、自分が考えている美しさのために殉ずるべきだ」

松本良順「病人を救うのは医師としての義務である」(ポンペ)

 

街道ゆく「道を歩きながらひょっとして日本人の祖形のようなものが嗅げるならばというかぼそい期待をもちながら歩いている」。年表を眺めて、「街道をゆく」は1971年、46歳から亡くなる直前の25年間続いたことがわかった。街道を歩きつつその土地に流れる時間をさかのぼり、歴史をたぐり寄せるという独特の語り口だった。

「街道はなるほど空間的存在であるが、しかしひるがえって考えれば、それは決定的に時間的存在であって、私の乗っている車は、過去というぼう大な時間の世界へ旅立っているのである」

以下を読むことにする。「芸備の道」「因幡伯耆のみち」。「韃靼疾風録」と「草原の記」。

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文芸春秋』7月号より。司馬家の住み込みのお手伝いさんであった作家の村木嵐のエッセイから。司馬遼太郎の言葉。

「小説は、文章の上手い下手ではなく、構成力が大切だ。いつもお腹のの中で考える癖をつけなさい

「リンゴの絵だけ上手に描いても、小説は成り立たない。周りの風景や背景を描き込むことが、小説の構成力になる」

「どんな作品を書くか本人にもわからないし、ほかの作家にもわからない。わかってしまうと、三島由紀夫のように自殺するしかないからね」

 

 「名言との対話」6月12日。太田昌秀「日本本土の『民主改革』は沖縄を米軍政下に置くことが前提で成立したものであり、その立場から日本の戦後を問わなければならない」

 大田 昌秀(おおた まさひで、1925年6月12日 - 2017年6月12日)は、日本沖縄政治家社会学者。元沖縄県知事、元社会民主党参議院議員琉球大学名誉教授。特定非営利活動法人沖縄国際平和研究所理事長。沖縄県島尻郡具志川村(現・久米島町)出身。

92歳の誕生日の本日に亡くなったというニュースが流れた。太田は沖縄師範学校在学中に沖縄戦を体験。早稲田大学を卒業し、ニューヨーク州シラキュース大学大学院で修士号取得。東大、ハワイ大、アリゾナ州立大で教授と研究をした後に、32歳から64歳まで琉球大学に奉職し、法文学長もつとめる。1990年から二期8年(65歳から73歳)、沖縄県知事として130万県民のリーダーとして活躍。2001年からの6年間(76歳から82歳)、参議院議員

米軍の公式記録にも「沖縄決戦は、第二次世界大戦を通じて最も激烈であり、最も損害(米軍)の多い戦闘であった」と記されている。この沖縄戦は、市民が盾となった戦争であり、地元住民は異民族的な扱いを受けており、1945年の3月の末から6月にかけて沖縄本島おその他の島でも集団自決が行われている。糸満市荒崎海岸でのひめゆり学徒隊の自決はよく知られている。住民対策が行われていたなら犠牲者数は半減、あるいは3分の1に減らすことができたが、日本はそういう対策は全くしていなかったのである。

 第二次大戦の沖縄戦は、全人口の三分の一が命を失う一大悲劇だった。大田は長い教育と政治の経験の中から、は軍事基地問題を解決しない限り、沖縄の明るい未来は切り拓くことは困難だと痛感していた。
大田は「何故に沖縄だけが日本から分離されたか」という問題をずっと追っている。米軍は北緯30度線で区切り、奄美大島は沖縄と切り離されて米軍占領下におかれた。それは大和民族琉球民族との境目であり、方言も違うし、また生態系も異なるという理由だった。本土防衛の「捨石」となった上に、日本は自らの独立と引き換えに沖縄を敵であった米軍の占領下に委ねてしまう。当時、天皇のメッセージも日本の安全のために沖縄を犠牲にという考え方があった。結果的に沖縄は米国でもなければ、日本でもないという宙ぶらりんな立場となる。
日本本土の「民主改革」は沖縄を米軍政下に置くことが前提で成立したものであり、その立場から日本の戦後を問わなければならないという大田昌秀は、ガンジーキング牧師を尊敬し、折に触れて二人の本を愛読している。「改憲されると戦後日本の民主主義は死滅する」という真摯な態度と表情は胸を打つものがある。