宇野千代展(神奈川近代文学館)

神奈川近代文学館の「生誕120年 宇野千代展--華麗なる女の物語」をみた時のパンフレットと自分のメモ、そして購入した「生誕120周年記念総特集 宇野千代」(KAWADE夢ムック 文藝別冊)から。

1897年誕生。14歳、藤村享一と結婚・離婚。18歳、小学校の同僚との恋愛で退職。19歳、藤村忠と同棲、22歳、結婚。27歳、尾崎士郎と結婚。31歳、梶井基次郎と噂。33歳、東郷青児と同棲。39歳、スタイル社創設。42歳、北原武夫と結婚。45歳、青山二郎小林秀雄を知る。48歳、終戦。67歳、尾崎士郎死去(66歳)。75歳、平林たい子死去(66歳)、川端康成自殺(72歳)。76歳、北原武夫死去(66歳)。81歳、東郷青児死去(80歳)。82歳、青山二郎死去(78歳)。86歳、「生きて行く私」がミリオンセラー。95歳、文化功労者。98歳、死去。

以下、宇野千代の言葉から。

・着物ほど、単純でありながら、あらゆる年齢の人を美しく装ってくれる衣装があろうか。日本が世界に誇れる最高の衣装であると私は信じている

・生涯現役でありたい。

・この頃思うんですけどね。何だか私死なないような気がするんですよ、ははははは。(98歳)

・朝起きるとすぐに、この机でその日の予定をメモします。そして毎日必ず机に向かふ。小説を書くといふことはそれに尽きる思ひます。

・生きて行くことが上手な人は、何よりも快活な人である。

・辛いと思う事があると、その辛いと思う事の中に、体ごと飛び込んで行くことです。

老いは考えたことがないのです。死ぬことも考えません。。

・「おはん」は最高の小説です。自分のものも、ほかの方のも含めて、一番だと思っています(吉永小百合に語った言葉)

・あのね、小説は結局、行きつく果は、モラル、そして宗教ですよ、それが底にない小説はつまらない(瀬戸内寂聴の追悼から)

元夫の宇野千代論から。

尾崎士郎「唯夫れ、芸術の歩道に於いては、夫妻自ずから向こうところを異にす。亭主の威令の意に此処に及ぶ能わざるは自ら顧みて不徳を嘆くのほかなし」(女房禅)

東郷青児「私は今でも宇野さんが好きである」(宇野さんのこと)

 丸谷才一の弔辞が出色だ。

「あなたの文学はずいぶん奥が深くて、幅が広く、日本文学の未来を開く豊かなものだったのに、日本社会はもっぱらあなたの実生活に関心を寄せるだけだったといふことがわかります。あなたの晩年は、長寿、健康、名声に恵まれてまことにしあわせなものだったけれど、新しい角度から論じられている可能性がこんなに多く、てつかずのまま残ってゐる作家は近代日本文学でも珍しいのではないでせうか。これこそはあなたの人生のあるいは市死後の、最大の幸福かもしれません。

 神奈川近代文学館で「おはん」と「生きて行く私」を購入。

 

「副学長日誌・志塾の風」170614

・高野課長

・川手課長

・飯田先生

・樋口先生

・金先生

・松本先生

 

「名言との対話」6月14日。藤沢秀行「“定石”どおりの人生を生きて何ががおもしろいのか」

藤沢 秀行(ふじさわ ひでゆき、ふじさわ しゅうこう、1925年6月14日 - 2009年5月8日)は、囲碁棋士棋聖、名人、王座、天元などのタイトルを取得。名誉棋聖

 豪放磊落な棋風で知られる一方、酒・ギャンブル・借金・女性関係など破天荒な生活で有名だった。棋聖戦の6期6連覇(優勝賞金4500万円)で借金を返済。書の名人で厳島神社鎮座400年で「磊落」、貴闘力の化粧まわしのに「気」の文字を揮毫した。

若手育成に熱心で、秀行塾での指導、若手との研究会も秀行軍団と呼ばれた。また弟子たちと断続的に訪中をし中国の棋士との交流も盛んに行った。死後2010年には北京に「藤沢秀行記念室」が設置されるなど、中国囲碁界から感謝されている。東京都台東区の小野照崎神社には絶筆の書「強烈な努力」が刻まれた記念碑がある。

 「試合が勝負ではない。毎日の積み重ねが勝負なのだ。」

「努力を怠れば進歩が止まるばかりでなくかならず退歩する。」

「碁の神様がわかっているのが100だとしたら、私にわかっているには、せいぜい5か6か、あるいはもっと下です。」

秀行(しゅうこう)さんの人生の軌跡を追うと、定石に従ってないことがよくわかる。勝負師らしい破天荒な生活を意図した日々だったのだろう。「異常感覚」「華麗・秀行」と言われた棋風のように、最後の無頼派として面白く一生を過ごした。それが多くの人を惹きつけた。やはり定石どおりの人生は面白くない。