小畑勇二郎--「亨けし命をうべないて」

秋田県知事を6期、24年つとめた小畑勇二郎を描いた「小畑勇二郎」小伝では、「信念と実行の人」であった小畑の人柄を次のように述べている。

名知事。人事の小幡。果断の人。無類の読書家。一流志向。、、、。

また、小畑の職場での垂訓や心構えも次のように紹介されている。

・今やらずして何日やる、俺がやらずして誰がやる(垂訓)

・おのれの立つところを深く掘れ、そきに必ず泉あらん

・何人も嫌な仕事を、何人が見ても正当に正しくやってのける私を見よ。

・私は鬼になる(機構改革と人員整理)

・善政は善教に及かず(孟子。生涯教育)

どんな仕事でも全身全霊でぶち当たる精神で、村役場の税金係を振り出しに、県知事までの仕事をやり遂げている。

秋田県知事退任後の昭和54年の73歳では、地方自治功労で勲一等瑞宝章を授与されている。瑞宝章とは積年の功労による。旭日は勲績のある人に贈る。勲一等瑞宝章は、現在では瑞宝大綬賞と改められている。

小畑の場合も、母シカが偉かったようだ。シカという名前は野口英世の母と同じ名前だ。「たよりにならない父だけど」と歌になっている野口と同じように、父・勇吉は俗にいう「山師」で、数々の事業に失敗して早世している。

 

 息子の小畑伸一の小畑勇二郎伝「亨けし命をうべないて」(サンケイ新聞社)は、人間・小畑勇二郎の私的な実像を描いていて飽きさせない。伸一は新聞記者。

勇二郎が色紙によく書いた「亨吉べし命をうべないて」は、すべてを天から授かった命運と思い、喜んで受諾し、全うすることにつとめるという意味である。諾べなう、とは積極的に喜んで受けるという気持ちを表しているとの解説である。

息子の観察によれば、ここぞという時にには、必ず誰か重要な人が現れて助けている。努力の積み上げもあるが、何か、非常に天運に恵まれている。強い星の下に生まれている。

勇二郎は読書家で、必要な部分にはアンダーラインを引いてあった。

名文家であった。「続・亨けし命をうべないて 県政覚え書き」では、自ら筆をとった「忘れ得ぬ人々」というタイトルで「水交わ通信」に連載した文章が載っている。亡くなった方の追想であるが、それぞれとの出会いやふれあいが、心のこもった達意の文章で語られている。重宗雄三、吉田季吉、蓮池公咲、、、など30人の人生とふれあいがわかる。

筆者は最後に一口にいって「一所懸命に生きている人」だと述べている。

「人間の運命というものは判らんもんだ。ワシは、あの時、クビになったおかげで知事になったようなもんだ」と小学校の代用教員をクビになったときのことを勇二郎は述懐している。

小畑勇二郎は、宿命を使命にかえて、一所懸命に生き切った人であると思う。

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「名言との対話」6月19日。太宰治「きょう一日を、よろこび、努め、人には優しくして暮したい」

太宰 治(だざい おさむ、1909年明治42年)6月19日 - 1948年昭和23年)6月13日)は、日本小説家。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。

太宰は38歳で亡くなるのだが、その短い生涯に140冊の小説を書いている多作な作家である。 この作家が長生きして書き続けていたら、とほうもない存在になっただろう。太宰は天才肌のように思えるが、意外なことに弟子の小野正文が船橋の自宅に訪ねたとき「作家にとって大切なのは勉強すること、つまり本を読むことだ」「横光利一が行詰っているのは不勉強のためだ」と言われたという。

年表を見ると、自殺願望が強いことに驚かされる。20歳、期末試験の前夜カルチモン自殺未遂。21歳、鎌倉小動埼海岸で薬物心中を図り、女は死亡。26才、都新聞の入社試験に失敗し首つり自殺未遂。28歳、妻初代の過去に悩み谷川温泉で心中未遂。4回の自殺未遂を経て、ようやく5回目に本望を遂げたのだ。何と生きにくい人だろう。

太宰の遺体が発見された6月19日は誕生日だった。この日は「桜桃忌」(おうとうき)と名付けられ太宰を偲ぶ会が今も墓のある三鷹禅林寺で催されている。この名前は名作「桜桃忌」からとったものである。桜桃とはサクランボのこと。

亀井勝一郎が「全作品の中から何か一篇だけ選べと云われるなら、この作品を挙げたい」と言っている「津軽」という佳品を読んだ。太宰は、弱さや自分の感情をユーモアを交えてさらけ出しながら書いていく。谷崎潤一郎三島由紀夫川端康成などの文豪の文庫はどんどん減っていく傾向にあるそうだが、太宰の文庫本はむしろ増えつつあるとも聞く。若い人のファンが多いらしい。

生きにくい太宰の作品に書かれている、人間の弱さ、悩みは、執筆当時よりもさらに生きにくい世の中になっている今の時代に若い読者の共感を呼ぶだろう。「生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、すこしでも動くと、血が噴き出す」という太宰は優しい人だった。