コリン・パウエル「リーダーを目指す人の心得」(飛鳥新社)。日野原重明先生、105才で逝去。

コリン・パウエル「リーダーを目指す人の心得」(飛鳥新社。2017年6月24日発行)を読了。

レーガン大統領はジョークの収集家だったが、パウエルは逸話の収集家であった。そのエピソードがパウエルにとっての人生やリーダーシップの教科書となった。その逸話の主人公たちのおかげでパウエルの人生が形づくられた。すべては人である、これが結論である。

 パウエルは気に入った名言や格言のメモを机と透明マットカバーのあいだに挟んでいた。パウエルは名言の収集家でもあったのだ。

リーダーを目指す人の心得 文庫版

 1937年生まれ。黒人として初めて米国陸軍で四つ星大将に上りつめ、米国四軍(陸軍・海軍・海兵隊・空軍)のトップである統合参謀本部議長に最年少で就任。2001年から2005年まで国務長官を務めた人物。その人の仕事論、人生論、リーダーシップ論。

・功績は皆で分けあい、非難は一人で背負う。

・問題解決こそリーダーがすることだ。

・内壁に当たったあと、さらに生長し、上にあがりたいと思えば、ピラミッドの外へ伸びるしか道はない。

・安定して優れた実績を残す者。勉強を続けて知的に成長する者。いずれ役に立つ知識・技能を得ようとする者。性格や倫理観。度胸。誠実無私。自信。同輩からの尊敬と信任。

・部下が求めるのは無私なリーダーであり、利己的なリーダーではない。

・部下をよく知り、尊敬する。一人ひとりについて学べるかぎりのことを学んだ。

・部下は自分の弱みを補完してくれる人を選ぶ。副官は厳しくて怖い人を探す。

・仕事の基準は高めに、ただし不可能ではないレベルに設定する。

・悪いニュースはすべて耳に入れておきたい。

・記者対応::答えたくない質問には答えなくてよい。仮定の質問には答えない。間をあけないこと、しゃべることを思いつかなければ、質問をくり返せばよい。

・部下は直属にする。補佐役は少ない方がいい。

・「抑えた示威ほど強く訴えるものはない」(トウキュディデス)

大量破壊兵器がないとわかっていたら、戦争はしなかっただろう(イラク戦争の失敗)

・人生はフロントガラスの向こうを見ながら進むべきで、バックミラーを見ていてはいけない。、、学んで進むのだ。

・講演:仕事の量をコントロールできる。講演自体が面白い。年次報告書を何年分も読み、組織を詳しく研究し、最後は就職活動ができるレベルまで相手のことを調べる。頭の中にスピーチを構成するユニットをたくさん持っている。

・「物事をなすのは組織ではない。物事をなすのは計画や制度ではない。物事をなすのは、人だけだ。組織や計画、制度は、人を助けるかじゃまするか、である」(リーコーバー大将)

・今の私があるのは、人生で出会った多くの人々のおかげなのだ。

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本日早朝、日野原重明先生が亡くなった。105才。ご冥福を祈る。

「本当に学ぶべきなのは、問題とどう取り組むか、どういう戦略を立てるべきかということである」

・日野原重明先生が、90歳以降の最晩年の鈴木大拙を診ている。当時日野原先生は48歳だった。(11109)

 ・今朝の新聞は、日野原重明先生の記事と広告が多いのが目立った。今日は日野原先生(1911年10月4日生まれ)の満100歳の誕生日だからだろう。やるべき崇高な仕事があり、多くの人に夢を与える、知的な老人の生き方に感銘を受ける。10年前の90歳の時、「生き方上手」は120万部のベストセラーになり、日本最高齢のミリオンセラー作家となった。昨年だったか、新横浜の新幹線の待合室で偶然に隣に座って言葉と名刺を交わしたことを想い出す。その時、「こんなことをやっています」ともらった名刺は、「新老人の会」の代表という肩書だった。75歳以上を新老人と呼び、自分自身を健康情報の研究に活用しようという団体だ。その75歳から25年という歳月を日野原先生が生き抜いているのは見事だ。新老人の生き方のモデルだ。(111004)

・新横浜の新幹線ホームのベンチで後から私の隣に座った人をふと見ると、なんとあの日野原重明先生だった。90代でベストセラーを書いた方で、今は90代の半ばだろう。名刺を差し上げて自己紹介する。先生からは「こんなことやっています」と名刺をいただいたが、それには「新老人の会」会長という肩書きがあった。(101107)

k-hisatune.hatenablog.com 「副学長日誌・志塾の風」170718

研究室

・秘書と打ち合わせ

ラウンジ

・山本さん:次回の録画は「ダ・ビンチ」と「ミケランジェロ」。

・高野課長:資料とスケジュール

・杉田学部長・金教務委員長:カリキュラム

 

「名言との対話」7月18日。川上貞奴「兎も角も隠れすむべく野菊かな」

川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、戸籍名 川上 貞(旧姓:小山)、明治4年7月18日 - 昭和21年(1946年12月7日)は、戦前日本女優

マダム貞奴として欧米で有名な女優は、葭町の芸者であった。葭町は今の人形町にあたる。あの吉原である。貞奴は生涯に於いて二人の男性と縁を結ぶ。一人は、夫であった気鋭の演劇改革家で新派を創生したオッペケペー節の川上音二郎1864年生まれ)であり、もう一人は初恋の相手でもあり後に愛人として晩年を過ごした電力王・福沢桃介(1968年生まれ)である。
「向こう見ずな人」と奴が述懐した音二郎は、川上座を立ち上げ、その後国会議員に立候補し落選、そして破産する。貞奴はどんなに突飛な案であっても夫を誠実に支持していた。日本の妻であった。折からの日本ブームの中、アメリカ興業では、ワシントンでは小村寿太郎公使の引きでマッキンリー大統領にも会っている。そして英国ロンドンに乗り込み話題になり、ヴィクトリア女王と謁見している。そして万国博覧会が行われているパリに行く。貞奴の美しさと華麗な演技はヨーロッパ人を虜にした。
彫刻家ロダンは快活で驚くほど完璧な芸術である貞奴に彫刻にしたいと申し出たが、断られている。31歳の作家アンドレ・ジードは、貞奴の演技を6回も見ている。作曲家ドビッシーは貞奴の琴の演奏を聞き、交響詩「海」に取り入れた。画家ピカソ貞奴のポスターを描いている。作曲家プッチーニは「蝶々夫人」を書いていたが、貞奴の演技をみて骨格に命を吹き込むことに成功した。画家パウル・クレーは、「全てが愛らしい。本物の妖精だ」と語った。ジャーナリストのルイ・フルエニは、1889年の博覧会の目玉はエッフェル塔であったが、1900年の万博の目玉はマダム貞奴だったと最大級の賛辞を送っている。

46歳で引退した貞奴は、ただの川上貞として、初恋の人で当時50歳の桃介と暮らすようになる。出会ってから30年以上の歳月が経っていた。そして貞奴62歳の時に、20年以上一緒に暮らした桃介を福沢諭吉の愛娘で桃介の妻・ふさのもとに返す。それから10年以上経った1946年に日本の女優第一号の川上貞奴75歳の生涯を閉じた。

「兎も角も隠れすむべく野菊かな」は、引退のおりの配りものである茶碗に自筆で書いた詠である。自選か、自詠かはわからない。