大祥忌。永六輔。阿部次郎。

今日の収穫。永六輔(孫・永拓実)。

・一日100通の葉書を書く

・著書は100冊近く

・「上を向いて歩こう」は安保闘争に敗れた若者のために書いた。

・「無駄なことは何もない。無駄にする人がいるだけだ」

・メモ用の手帳を常に携帯し言葉を大切にした(言葉の採集家だった)

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義母の3回忌を高源寺(曹洞宗)にて執りおこなう。忌日の法要について住職の話から。3回忌は大祥忌。心を切り替えて前向きに。健康と無事を祈り供養する。

初七日 初願忌・所願忌・始善忌・哭添忌。三途の川に到着する日。裁きが決まる日
二七日 以芳忌・以訪忌・到彼忌・總分忌
三七日 洒水忌・孝力忌・光喜忌・何經忌・阿經忌
四七日 阿經忌・阿況忌・相等忌・延芳忌・遠方忌・暗命忌・何經忌・向圍忌

四九日 この世とあの世をさ迷う。中陰の49日。成仏を願い極楽浄土に行けるように、家族や親族のほか、故人と縁の深かった方々を招く。忌明けの法要。ここまでが忌中。
五七日 小練忌・小斂忌・芳明忌・小飯忌・離延忌・今離忌・重苦忌・法命忌・上賓忌

六七日 檀弘忌・前至忌・脱光忌・休新忌
七七日 大練忌・大斂忌
百箇日 卒哭忌・出苦忌・幽回忌・百朝忌・齒若忌。泣くことをやめ悲しみに区切りをつける日
一周忌 小祥忌・邊哭忌。丸1年。少しめでたい。
三年忌 大祥忌・休安忌。丸2年経った3回忌。次の安住の世にいく。めでたい。
七周忌 休廣忌・周遠忌・遠波忌・超祥忌・七霜忌
十三年忌 稱名忌・遠方忌・寂語忌
十七年忌 慈明忌

二十三回忌
二十五年 大士忌
三十三年忌 本然清淨忌・冷照忌・阿圓忌・須陀圓忌

五十回忌 最後の年忌。弔い上げ。
百年 一會忌

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「名言との対話」8月27日。阿部次郎「死は生の自然の継続である。最も良き生の後に、最も悪しき死が来る理由がない。死に対する最良の準備が最もよく生きることにあるは疑いがない」

阿部 次郎(あべ じろう、1883年明治16年)8月27日 - 1959年昭和34年)10月20日)は、哲学者美学者、作家仙台市名誉市民

学生時代に読んだことのある阿部次郎32歳の作品『三太郎の日記』は、倉田百三『愛と認識との出発』と並んで私たちの時代までの大学生の必読書だった。またもう一つの流れ「岩波文庫」を創刊した岩波茂雄とは一高時代からの同級生で、寮が同室だったこともあり、生涯の親友だった。友人が金に困っているのをみかねて岩波の金を借りてやろうかなどと書いた手紙も残っている。この二人が人格主義にもとづく教養主義を主導したのである。年譜を読むと、岩波が2歳年長だが、奇しくもこの同じ8月27日生まれである。

阿部次郎自身も19才から71歳まで断続的ではあったが、日記をつけ続けた。仙台の阿部次郎記念館では大正5年12月9日の漱石の逝去時に「夏目先生死す。通夜、雪とまがふ月夜、、。」と書いた博文館発行のポケット日記も見ることができた。

同郷の者との親交が深かったようで、写真嫌いだったが同郷の土門拳が撮った写真は気に入っていたそうだ。山形県松山にある記念館は、次郎の文字が入っていない阿部記念館だった。記念館の近くの小学校には阿部襄という名前の石碑が建っていたので不思議に思ったが、切妻造りの平屋の実家をみて納得がいった。

次郎は東京帝大を出て東北帝大教授、三也は陸軍大学出身の軍人、余四男は東京帝大を出た動物学者で広島文理科大学教授、勝也は東京帝大を出た歴史学者で九州帝大・北海道帝大・東北帝大教授、六郎は京都帝大出身の文芸評論家で東京芸大教授、という具合に秀才一家だった。次郎だけが特別なのではなく、阿部家そのものがこの地域の誇りだったのである。阿部記念館と名付けたのもわかった。当主であり次郎の祖父に当たる七郎右衛門と祖母にあたるわかのの写真がある。このわかのが立派な人格者で、阿部家の精神的なバックボーンとなった。偉いおばあさんだっとの説明があった。

次郎は毎年正月に遺言を書いている。新しい遺言を書いたら前の遺言は破棄しているのだが、珍しく昭和16年元日版の遺言状が展示してあった。参考にしたい習慣である。

「白雲の行方を問はむ秋の空」(三太郎の日記)

「愛とは他から奪うことではなくて、自己を他に与えることである。」
「自嘲は強者のものである。自己憐憫は弱者のものである。」
「人間は長生きしなければ駄目だ」と語っていた阿部次郎は59歳で東北大学法文学部長に就任するが、翌年軽い脳溢血で辞任する。定年退官後はどのような知的生活を送ったのだろうか。脳軟化症で入院し、翌年76歳で人生を終える。良き生を全うできたのだろうか、気になるところである。