「全国地域リーダー養成塾」(一般財団法人地域活性化センター)で講演--「説得から納得の政策形成へ」

全国の市町村の公務員対象の講座。講演研修のタイトルは「説得から納得の政策形成へ」。9時から12時。市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷。

北海道東川町から愛媛県西伊予市まで40名。平均年齢35歳。女性6人。

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所属部署。

教育委員会。定住促進課。総務課。市民生活課。収納課。商工振興課。国民保険課。危機管理課。水産商工課。男女平等課。企画財政課。介護高齢課。企画政策課。財政課。危機管理防災課。産業観光課。使節経営課。総合政策課。建設課。建設環境課。用地対策課。総合政策グーループ。秘書企画課。税務課。上下水道部。経営戦略課。産業・観光・地域経済活性化部会。定住地域政策課。都市計画課。住まいまちづくり課。住民税務課。東京事務所産業振興部。東京事務所産業立地課。

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以下、終了後のアンケートから。

「文章がごまかしだらけであることにドキッとしました」「合意形成」「図解の必要性にびっくり」「鳥の目を意識」「業務の目標が抜け落ちていた」「町民に対して役場全体の仕事を図解して見やすいところに置いてはどうか」「子どもにやらせてみよう」「自分の仕事をいかに分かっていないか分かった」「仕事は問題解決ということに感銘」「日常的にやていきたい」「考えることを大切にしたいと決心」「知識よりも問題解決を意識したい」「非常に役に立つ」「活用します」「やる気が出た」「メルマガで学んでいきたい「「驚きました」「図解日本史を購入」「本を読みます」「目からウロコ」「仕事をごまかしてきた」「住民ニーズを意識」「頭を使った」「実践します」

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「名言との対話」8月31日。岡田紅陽「一生に一度でいいから会心の一枚を撮ってみたい」

岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 1972年11月22日)は、日本の写真家。1923年の関東大震災の被害状況を東京府の嘱託として撮影。1925年写真スタジオを設立。主に山岳写真、風景写真を撮影、富士山の撮影をライフワークとした。1952年日本写真協会を創設。

早稲田在学中に、大隈重信学長から「目的に向かったら命を捨ててかかれ」という訓諭があり、「そうだ。一生を棒に振ってもいい。早く悔いのない目的を探してそれに命を捨てるつもりで頑張ることが先決だ」と決心する。早稲田の19歳の時に河口湖湖畔で富士山と出会ってから77歳で没するまで富士一筋の生涯だった。

紅陽という号は、夜明けの紅富士からとった。富士の山肌が紅に輝きだす夜明けの荘厳な姿に感動し浮かんだ言葉である。この人は「富士こそわがいのち」と言ったのだが、その言葉通り、生涯を賭けて命がけで富士山の写真を撮り続けた。約40万枚の原板がある。一つとして同じ構図のものはない。記念館の写真はどれも息をのむような美しさだ。現在の五千円札の裏側の「本栖湖の富士」は紅陽の作品である。郵便切手への採用も30作品を超えている。

「瞬間を逃さずにシャッター。距離と山の大きさ。光線の角度の予備知識。小型カメラでは山頂から4-5里がもっともよい。」

「彼女は全く稀にみる妖麗な美人ではあるが、気まぐれな、しかも神経質な女性でもある。、、、全く私は手に負えないむずかしい恋人を持ったものである。」

徳富蘇峰は「富士山をこれほど美しく、気高くとれる写真家はほかにいない」と言い、川端康成は「、、、、古来の画人、文人にも、50年を富士一山にのみ取り組み、打ち込んだ者はあるまい」と紅陽を語っている。

紅陽は制作日誌を書き続けている。使用したカメラ、レンズ、フィルター、乾板とフィルム、露出、絞り、現像、印画紙などを詳しく記している。同じ被写体を二度と撮らない、同一の失敗を二度と繰り返さぬ、戒めの手段である。こういう心掛けの岡田紅陽にして「会心の一枚」はなかったという。