インターネット放送局T-Studioの「名言との対話」第22回は、ミケランジェロ。「最大の危険は、目標が高すぎて達成出来ないことではない。目標が低すぎて、その低い目標を達成してしまうことだ」

インターネット放送局T-Studioの「名言との対話」第22回は、ミケランジェロ

「最大の危険は、目標が高すぎて達成出来ないことではない。目標が低すぎて、その低い目標を達成してしまうことだ」

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「副学長日誌・志塾の風」170901

・高野課長

・杉田学部長:松田義幸先生との会食日程。人事委員会案件。

・バートル先生:モンゴル出張の詳細。

・武井:入試の状況

・山本さん:T-Studio。次は人生100年がテーマで、日野原重明土屋文明を。

・松本先生:未来フェス2017京都の様子を説明

 

「名言との対話」9月1日。国吉康雄「「教育を受ける機会を与えてくれた国アメリカで、アメリカオリジナルの絵を生み出して描いてやろうと決める」

国吉 康雄(くによし やすお、1889年9月1日 - 1953年5月14日)は、日本洋画家20世紀前半にアメリカ合衆国を拠点に活動した。

日露戦争による国家財政の窮乏(国家予算の60倍の借金)から政府は口べらしのための移民政策を推進する。それに乗っかかって1906年国吉康雄(1889-1953年)はカナダ、そしてアメリカへわたる。鉄道の掃除夫、果樹園の季節労働者、ホテルのボーイ、そして一時はパイロットを目指すなどの苦労をしながら、奨学金をもらいいくつかの芸術学校で絵の勉強を続ける。

1924年の排日移民法でアメリカ市民となる道が閉ざされ、外国人居住者という身分になる。1941年の太平洋戦争勃発で、今度は「敵性外国人」となる。こういった流れの中で、国吉の立場は微妙になっていく。国吉はこの戦争の責任は日本の軍部にあるとし、民主主義国家アメリカの側に立って積極的に発言する。アメリカは国吉に敵・日本人を描くという使命を与える。
平和を訴えれば「敵国人」と非難され、芸術家の権利を叫べば「社会主義者」と言われる。そういう中で国吉が描いた作品は賞を受賞するが、「ジャップに賞を与えた」という批判にもさらされる。

「私は自分の女性はこうあるべきだと夢想しているユニバーサル・ウーマンを描いているのだ」そのために国吉が行ったことは、世界中に暮らすすべての女性の肌の色を混ぜ合わせたようだ。多民族国家アメリカを具体化しようとしたのであろう。岡山出身の国吉康雄の絵は、瀬戸内海の直島のベネッセハウスミュージアムで観ることができる。福武総一郎のコレクションだ。

 国吉が尊敬しフランスで活躍した藤田嗣治(1886-1968年)は、第二次世界大戦が勃発すると日本に帰国し、戦争画の第一人者として戦時の日本画壇を牽引した。二人とも祖国日本からは理解されない苦悩を背負っているのだが、国吉と藤田の姿は対照的だ。

アメリカ在住の敵性外国人の苦悩を背負った国吉康雄は、17歳で渡米して以来自身を援助し育ててくれたアメリカへの感謝の念を誰よりも持っていた。そしてアメリカオリジナルの絵を完成させて、アメリカ美術会議副議長、美術組合会長に推されるなどアメリカ人から最も評価された画家の一人となった。初志を貫徹した人生だった。