岡山〜吉備真備。佐藤一章。田中塊堂。いがらしゆみこ。林原一郎。土光敏夫。

伊藤さんの案内で、岡山の人物記念館の旅。

 吉備真備の居館跡。

 奈良時代の政治家。695年ー775年。正二位右大臣。81歳で死去。学問の神様。

「軍制を改め、新暦を定め、農産を奨め、民訴を聴き、律令を定め、内乱を除き、人倫を諭し、片仮名を創始、、」という善政を行った人物。吉備朝臣の姓を勅許され改名。

留学生として、次には遣唐副使として、二度も唐に入った。

当時の唐の玄宗皇帝が才知に感じ、帰国させなかったという逸話が吉備大臣入唐絵詞になっていて、その物語の一部がこの像のそばに彫られいる。知識を試され、囲碁を名人と対局させられ、野馬台の詩の謎を解き、幽閉させられた時は日月を隠し天地を暗闇にした。それで玄宗皇帝はようやく帰国を許した。

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 吉備大臣館。

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 吉備大臣産湯の井戸。星の井。

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 やかげ郷土資料館。

矢掛町山陽道の宿場町。小田川を往来する高瀬舟の川港。鷗外の「高瀬舟」か。

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画家・佐藤一章。 1905−1960年。東洋の伝統を生かした絵画を描く。東京美術学校西洋画科。在学中から帝展に入選。三度中国に渡る。昭和20年に岡山に帰り地方での初めての日展を誘致、岡山大学に特設美術科を創設。昭和30年に岡山大学教授を辞し川崎に転居。

 

書家・田中塊堂。1896ー1976年。79歳。かな書法を研究し、古筆を研鑽。かな作家。1960年帝塚山学院短大教授。1961年「書道より見たる日本写経史の研究」で文学博士。1966年帝塚山学院大学教授。1973年日本書道美術館初代館長。1975年勲三等瑞宝章。1976年死去。

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低地で水害を除くため、本陣石井家の裏門の水楼と大庄屋福武家の物見があった。これに因んで水見やぐらを象徴とした資料館を建てた。ベネッセの福武の先祖か。

 本陣・石井家。佐賀から33日、江戸から20日。参勤交代は一日40−60キロの行程。夕刻6時半到着、翌日6時出発。西国大名が宿泊。幕府の官吏、僧侶、、。天璋院篤姫も宿泊。

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 蛇腹式の立体地図。8巻で75メートル。中国行程を描いた絵地図。参勤や帰国の旅の地誌的知識。山陽道の左右の名所が書かれている。

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倉敷。いがらしゆみこ美術館。

北海道生まれ。高校時代に単身上京。1968年高校3年にデビュー。 少女漫画「なかよし」の専属作家。1975年の「キャンディ・キャンディ」が大ヒット。1976年アニメ化で一大ブーム。1977年、第1回講談社漫画賞。1999年、山中湖のいがらしゆみこ美術館がオープン(ここは訪問した)。2000年、キャンディ・ミュージアムいがらしゆみこ美術館 新館」が倉敷にオープン。

キャンディ・キャンディは累計単行本1200万部。初版100万部。

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作品集。

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 岡山に戻る。林原美術館

清明上河図」をみる。超高精密のデジタル画像も。f:id:k-hisatune:20170903210444j:image

文人画。明の蘇州の文人画の始祖・沈周(1427ー1509)。聖蹟図巻。

 林原一郎。

岡山財界の雄。祖父の水飴会社を発展させ、巨万の富を得て、これを美術品に替えた。浅見のメ明と卓越した審美眼で、藩主池田家の蒐集品以外にも優れた作品を蒐集した。52歳の若さで没した。その遺志を継ぎ1961年に財団設立。1963年にコルビじぇの弟子・前川国男の設計で1964年に完成。

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 土光敏夫記念苑。「日に新たなり 日々新たなり」。岡山生まれ。91歳。f:id:k-hisatune:20170903210510j:image

 夜は知研岡山の仲間との食事会。

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「名言との対話」9月3日。広岡浅子犠牲的精神を発揮して男子を感化する者とならねばなりません」

広岡 浅子(ひろおか あさこ、旧字:廣岡淺子。1849年10月18日嘉永2年9月3日) - 1919年大正8年)1月14日)は、日本の実業家、教育者、社会運動家

日本女子大成瀬記念館で買った「広岡浅子関連資料目録」を読んだ。NHK朝の連続ドラマの主人公・広岡浅子の講演録が納められており、興味深く読んだ。「なぜ老年になっても元気なのか」という問いに、「無限の希望」があるからだと答えて、少女時代から老年に至るまでの「希望」を語っている。彼女の一生がわかる。

少年時代「我日本の旧習を脱し暇あれば男子と共に素読して、必ず女子の頭脳は開拓せらるべしとの希望を以って、大に力を養ふ事に努めたり」

青年時代「広岡家は大阪の富豪なれば、其主人は少しも自家の商業に関せず、万事支配人政治にて、日毎、謡曲茶の湯等の遊興を自己の業の如く思慮しつつあるが如し。之を見て余は斯くの如き有様にて永久に家業繁盛の継続するや否やの疑問を生ぜり。故に一朝事あれば己れ自ら起たざる可からずと意を決し、其準備に努めたり。そは簿記法、算術、其他商業上に関する書籍を、眠りの時間を割きて夜毎に独学し、之れに熟達せん事を我が希望とせり。」

壮年時代「断然意を決し日本女子大学校発起者に加名するの栄誉を担へり。、、、将来の希望に向って尽力するをこよなき愉快なる事となしたりき。」

老年時代「我希望の果されん日は前途尚遼遠なるを覚ゆ。然れども死生の別を考慮する暇あらず。今尚無限の希望に充ちて、百年の計画を行ふ之れ余が老いぜざる大なる原因ならずんばあらず。」

日本女子大の学生たちへの講演録から。「犠牲的精神を発揮して男子を感化する者とならねばなりません。」「人格修養の最も簡単な一方法は、一挙手一投足も無意味にしないと云う事であらうと思います。」「男子を感化し、男子の力を悉く有益高尚なる目的の為に、捧げさせる事が出来るのであります。」

広岡浅子の主張は、女性自らが主人公になることもいいが、家庭を持っても日本婦人は男子を日常的に感化し、無駄なことをやめさせ、社会のために働くように仕向けることである。広岡浅子は1919年1月に逝去しているのだが、10歳ほど年下の日本女子大創設の成瀬仁蔵もその3月に60歳で卒している。ほぼ同時に亡くなるのは偶然であろうが、二人の志は次世代に引き継がれていく。