岡田英弘『世界史の誕生--モンゴルの発展と伝統』(ちくま文庫)

岡田英弘世界史の誕生--モンゴルの発展と伝統』(ちくま文庫)を読了。

 東洋史西洋史、世界史、日本史、万国史、などを統合した、筋道の通った世界史を新たに創り出すことを目的とした、意欲的で問題の書である。

1206年のチンギスハンのモンゴルの台頭が世界史の最大の事件で、世界史の始まりとする。

東は日本海東シナ海から、西は東アジア、北梶アジア、中央アジア西アジア、東ヨーロッパの大陸部の大部分をモンゴル帝国が覆った。

インド人、イラン人、中国人、ロシア人、トルコ人という国民は、モンゴル帝国の産物であり、遺産である。資本主義もモンゴル帝国の遺産である。

大航海時代は、大陸帝国から海洋帝国への世界利権移行の大きな運動であった。

世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統 (ちくま文庫)

・歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を越えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述巣津営みのことである。

・歴史は地中海世界では『ヒストリア』を書いたヘロドトスと、中国文明では『史記』を書いた司馬遷、という二人の天才がつくりだした。『ヒストリア』は定めなき運命の変転を記述するのが歴史であり、弱小ギリシャがアジアのペルシャに勝利する物語である。アジアに対するヨーロッパの勝利が歴史の宿命という歴史観。『史記』は皇帝という制度の歴史を描く。権力の起源と由来を語る。天下(世界)。天命(最高神の命令)。地中海世界では変化を主題とする対決の歴史観中国文明では変化を認めない正統の歴史観

・中央ユーラシア世界の草原の民の活動が、中国世界、地中海世界とヨーロッパ世界の歴史を動かした。13世紀のモンゴル帝国がユーラシア帝国の東西の交流を活発にし,、一つの世界史が誕生した。

・モンゴルによる世界史の誕生。4つの意味。1:世界史の舞台を準備した。2:以前をご破算にしモンゴル帝国から中国、ロシア、アジアと東ヨーロッパ諸国など新しい国々が分かれ、生まれた。3:北シナの資本主義経済が世界へ拡がり現代の幕を開けた。4:モンゴル帝国ユーラシア大陸の利益を独占したため、取り残された西ヨーロッパと日本が海上貿易に乗り出し、歴史の主役が大陸帝国から海洋帝国に変わっていった。

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「副学長日誌・志塾の風」170913

・飯田先生:「学部長日誌」

・杉田学部長:非常勤の先生

・中村その子先生:非常勤の先生

・高野課長:インターゼミのスケジュール

・樋口先生

昼食は樋口先生とイタリアンを食べながら近況交換。

・岩澤さん:ホームページ

・理事長報告:杉田学部長と。1時間半。中高と大学の関係。

 

「名言との対話」9月13日。杉田玄白「一に泰平に生まれたること。二に都下に長じたること。三に貴賎に交わりたること。四に長寿を保ちたること。五に有禄を食んだること。六にいまだ貧を全くせざること。七に四海に名たること。八に子孫の多きこと。九に老いてますます壮なること」

杉田 玄白(すぎた げんぱく、享保18年9月13日1733年10月20日) – 文化14年4月17日1817年6月1日))は、江戸時代蘭学医若狭国小浜藩医。

前野良沢杉田玄白らは、江戸の中津藩中屋敷の良沢の住まいで「ターヘル・ナトミア」の翻訳を行い4年後の1774年に「解体新書」として刊行した。2000年10月23日の朝日新聞で、この1000年で最も傑出した科学者は誰かという面白い企画があり、読者の人気投票を行っている。それによると、野口英世湯川秀樹、平賀源内に続き、堂々の4位であった。それはこの『解体新書』の訳出によっている。

かたくなに主義にこだわる良沢、たくみにプロジェクトを実現させていく10歳下の玄白。良沢は81歳で娘の嫁ぎ先で死を迎え、玄白85歳での長寿での穏やかな死であった。性格タイプのエニアグラムでみると、良沢は観察者、玄白は成功を目指す人だと思う。それぞれの性格にふさわしい人生を送ったのだ。

玄白は外科に優れ、「病客日々月々多く、毎年千人余りも療治」と称され、江戸一番の上手といわれた。晩年には小浜藩から加増を受けて400石という大身に達している。83歳の時には回想録として『蘭学事始』を執筆し、後に福沢諭吉により公刊されている。84歳では「耄耋(ぼうてつ)独語」(老いぼれのひとり言)を冷静な観察で書いている。今でも、進歩的な取り組みや研究面で功績顕著な人や団体を対象としている小浜市主催の杉田玄白賞がある。前野良沢の出身地の中津市川嶌眞人医師も第7回の受賞している。

「己れ上手と思わば、はや下手になるの兆しとしるべし」

「われより古(はじめ)をなす」

冒頭に掲げた「九幸」が玄白の人生観だった。太平の世、天下の中心で成長、広い交友、長寿、安定した俸禄、貧しくない、名を知られた、子や孫が多い、壮健。それらをすべて得た玄白は晩年には自ら九幸翁と号していた。この玄白の幸福論は参考になる。