モンゴル外務省。国立博物館。モンゴル国立大学。北東アジア協会。モンゴル主催の交流パーティ。

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 国会議事堂前のスフバートル広場で多摩大グループの記念撮影。

スフバートルはジンギスカンと並ぶ建国の英雄。1921年のモンゴル革命の指導者で1923年に30歳で夭折。「われが人民がひとつの方向に、ひとつの意志に団結するならば、われわれが獲得できないものはこの世に一つとしてない。われわれが知り得ないものもない。できないことも何ひとつとしてない」というスフバートルの言葉が刻まれている。

 モンゴル外務省を訪問。日本人捕虜が建てた建物。

日本モンゴル協会主催の会議に参加。

この協会は25年ほど前にできたもので、政治経済文化の日本とモンゴルとの関係の強化を応援する組織である。元首相のサドノン先生が名誉会長。この人は1991年に日本を公式訪問した初の首相。副会長は日本への初の留学生で外務省では大使、工業大臣を歴任した人で現在は太陽光による工場の社長をしている。司会のフレルバートル氏は前の日本大使で現在のこの協会の会長。

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 サドノン名誉会長の挨拶。

「1990年の3月に日本を訪問した当時は宇野外相。海部総理大臣からの招待がありモンゴルとしては困難な時代であったけれども、訪問を決断をした。ウランバートルと東京には直行便がなくハバロフスク経由であった。訪問は成功した。モンゴルとしては初の西側への訪問となった。このとき初めて日本と日本人について初めて接したことになる。1949年23歳の私は地方からウランバートルに出てきた。当時は日本人抑留者がインフラの建設に当たっていた。この外務省のビルやオペラ劇場の建設にあたった姿を見たことがある。1990年の記者会見では若者の政府への反対運動の広がりをどう思うかと聞かれた。私は将来世代の代表であり政権を引き渡すことに抵抗は無いと答えた。1990年3月4日に帰国。3月7日ハンガーストライキ。3月8日国営テレビで若者たちと意見交換。3月9日全国民回政権を受け渡すと表明した。社会主義から市場主義への平和的な方法で移行した初のケースだった。この時ソ連からの支援が中止となってモンゴルは苦境に陥った。援助を求めていたこの時期に日本がリーダーシップをとって支援してくれた。このことをモンゴル国民をよく理解している。1994年日本モンゴルの関係を促進するこの協会を設立した。1つだけ現在の課題を述べる。モンゴルは地下資源が豊富であり銅や金をたくさん産出できる。そして家畜は大変多い。しかし課題としては食肉加工の工場の運営がまだできていない。」

 寺島先生の挨拶。

「この8月まで日本大使であったフラルバートル先生に感謝を申し上げる。大使には敬意を表したいと思う。1つは、日本のモンゴル学が大いに発展しているのはバートル大師のおかげでもある。岡田英弘世界史の誕生」など歴史学者が育っているがこれはバートル大師の支援と参画のおかげである。 2つ目は北朝鮮大使の経験をもとに北朝鮮と日本モンゴルをつなぐ役割を果たされたことである。私の親しい経済人であるソフトバンクの孫さん、HISの澤田さんなどがモンゴルに於いて大きなプロジェクトを展開しているのを心強く思う。ソーラー風力、アジアスーパーグリッド構想…...大学連携では、多摩大、神奈川大学とモンゴルの大学との連携を模索したい。そして深みのある関係にしていきたいと思う。

斉藤勁先生の挨拶。「 2011年の民主党政権官房副長官として1月にウランバートルに来たことがある。その時北東アジアの中のモンゴルに対して何ができるかをの思いを巡らしてきた。母校である神奈川大学を通じて若者の交流を進めていきたいと思っている。

外務省のサンドラアジア局長。この方は女性である。「モンゴルの外交政策の1番目は多元的でオープンな外交政策だ。2番目はバランスという哲学である。3番目は中国とロシア以外の第3の隣国との交流である。価値を共有している弟3隣国としては、アメリカ、日本、韓国、トルコ、インドなどがある。国連を大切にしているし、社会主義時代の友好国であったラオスベトナム北朝鮮などとも友好関係を深めていく。そして発展途上国との連携も図りたいと思う。来年は北朝鮮との外交関係樹立70周年だ。モンゴルが北朝鮮の子供を育てて帰国させたりしたこともあり金日成出席も2度モンゴルを訪問している。国連の安保理事会の決議を実行する。一方で韓国、北朝鮮にもモンゴル人が住んでいる戦争はだめだ。対話のパイプを残したい。モンゴルには野心は無い。対話のイニシアチブをとっていきたい。北朝鮮の核ミサイル許さないし、安保理の決議を支持している。そして国際社会との協力を進めていきたいと思っているが、北朝鮮とアメリカとの対話のチャンスを残したいと思う。」

寺島先生。「この夏アメリカ欧州を回ってきた。その中で北朝鮮問題を議論してきた。まず指摘しておかなければいけない事はトランプ政権の性格が変わってきたことだ。ケリー、マティスなど軍事専門家が中心になってきて戦争計画が具体的になってきている。第二次大戦では日本に対するオレンジ計画があったが、現在北朝鮮に対してはブラックスワン(黒鳥)計画がある。アメリカは先制攻撃は避ける。韓国は融和的であり、ロシア中国が反対するからだ。もし軍事衝突があれば徹底的に叩くシナリオがある。カーボーイメンタリティー。海上封鎖があれば衝突が誘発される。この時アメリカは北朝鮮の電力、ネットワークを完全に遮断することになるだろう。イラクフセインとの戦争と同じだ。ここで1つのためらいがある。中国、ロシアそしてモンゴルも統一朝鮮は望んではいないのではないか。北は反撃能力があり、もし戦争やれば体制の転覆まで行かざるを得ない。日本政府の公式スタンスは、アメリカのすべてのオプションを全面支持するとしている。しかし私はこれは問題があると思う、核攻撃も含まれていると思われるからだ。  この7月7日ウィーンで122カ国による核兵器禁止条約に日本は反対した。オーストリアは日本こそ先頭に立つべきだと言っていた。北東アジアの非核化については日本の見識を示すべき時である。今日共通の方向感が必要であり、北東アジア全体の非核化をなんとしても行わなければならない。」

 斉藤先生。「緊張緩和に知恵を出さなければいけない。対話の場。2018年はモンゴルと北朝鮮の国交樹立70周年とも聞いた。朝鮮半島の混乱については日本にも責任がある。ぜひウランバートルで対話の機会を持つことを北朝鮮に電話してもらいたい。」

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モンゴル国立民族溺死博物館を訪問。

この日はモンゴルにおいては文化の日で休館であったが触れるバートル大師のおかげで見学ができた。

  モンゴル国立大学を訪問。副学長が対応してくれた。単位の認定等の問題もあり複数の教員による作業部会でやり取りをすることとなった。

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滞在ホテルのベスとウェスタン・プレミアム・トゥーシンで、 モンゴル北東アジア協会とのミーティング。財務大臣経験者など高いレベルの方々。

「日本と北朝鮮の問題については二国間ではなく、モンゴルで協議するのが良い。独裁政権は独裁者がいなくなると体制が一気に変わる。北朝鮮は  15,000,000人のソウル市民を人質に取っている形だ。日本とアメリカは戦争はできない。日本はこのことを知っていルはずだ。北朝鮮の1948年の建国以来モンゴルと北朝鮮は常に往来をしている関係にある。北朝鮮を2番目に認めた国がモンゴルだ。モンゴルは解決まではできないができることもある。協議をウランバートルで二回したことがあるし、拉致被害者に関わる孫との面談面談もウランバートルで実行した。モンゴルの立ち位置はノルウェーと似ている。控えめに。脱北者を7,000人から8,000人ほどモンゴル経由で韓国に逃しているが北からの批判は無い。国民やメディアもこのところ北朝鮮にはやや批判的になっている。国民同士の交流が大事だこのことが対立をなくなくすことになる。労働者の受け入れと交流は国民の視野を広げることになっている。北朝鮮はモンゴルの経験に関心を持っている。制度と実行には距離がある。じっくりとやらないばならない時間がかかる」

斉藤先生。「今後モンゴルの役割はますます重要となっている理解し合うと言うことが大事だ。国民同士の交流についてあらゆるチャンネルを覗く必要がある。その鍵はモンゴルではないか。」

「アメリカのプレッシャーに寄ってきたとの交流は減ってきていることを少し心配している。日本最初の無償援助であるゴビ砂漠のカシミヤ工場についても60名の女性を北に送還。この点については日本ももっと気を使う必要があると思う。北からのプレッシャーもある。国民の交流によって不都合なことが知られてくる。だから慎重になっている面もある。日本はアメリカにやり過ぎだと言うべきである。」

斉藤先生。「政権が変わっても対話の方針を維持しているのは素晴らしいことだ。民主化前後のご苦労は察して余りある。北東アジア協会並びにモンゴル政府の主導によって対話の場を設定しただけるとありがたい。学界の会議も行っていくべきである。」

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 フレルバートル前駐日大使主催のパーティー。

斉藤先生。「若者に未来を託したい。この訪問団はまだ8時間しか経っていないが何日間も経過した感じがあるのではないか。一つ一つの積み重ねが大事だ。発信しそして行動に繋げたい。学び合うことが大事だ。自分たちが何をするか何ができるかを一緒に語り会おう。」

外務省アジア局長。「日本とモンゴルの国交樹立45周年の年である。7月には大島議長が訪問された。この夏は6ー7割が日本との仕事であった。」

寺島先生。「この夏のウイーンにおける中東協力会議ではOPECや石油の問題を議論した。まさにユーラシアのパラダイムチェンジが起こっている。ロシアのプーチン習近平毛沢東化を進める中国。北朝鮮。モンゴル。戦略的意思で向き合おう。小さいが重要な一歩だ。それぞれがどう動くのか。」

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モンゴル財政金融大学の学長と提携について相談する機会があった。

 終了後、ホテルのバーで東海理研の社長夫妻と金先生と一緒に歓談。

 

「名言との対話」9月17日。ケンペル「日本人ほど丁重に礼儀正しく振舞う国民は世界中どこにも無い。世界中のいかなる国民でも、礼儀と言う点で、日本人に勝るものは無い。彼らの行状は百姓から大名に至るまで大変礼儀正しいので、我々は国全体を礼儀作法を教える高等学校と呼んでもよかろう」

エンゲルベルト・ケンペルEngelbert Kaempfer, 現代ドイツ語読みではエンゲルベアト・ケンプファー1651年9月16日 - 1716年11月2日)は、ドイツ北部レムゴー出身の医師博物学者ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる。

ケンペルはスエーデン国王がロシアとペルシャへ送る使節団に医師兼秘書として随行。モスクワ、アゼルバイジャンペルシャを巡り、オランダ船の船医としてインド、シャムを経由して日本に到着。オランダ商館付き医師として2年間出島に滞在。2年連続して江戸参府し将軍徳川綱吉に謁見し、綱吉の所望で自作の歌と踊りを披露している。またケンペルは江戸で朝鮮通使の一行への熱狂ぶりを見物し「わが一行のことは、彼らの好奇心をそそるには、あまりに微々たる存在であったためだろう」と記している。

1995年にヨーロッパに帰国するまでの12年間の地球半周の大旅行であった。後に『日本の歴史及び紀事』を著し日本の風土や人物を紹介した。ケンペルは日本には聖職的皇帝と世俗的皇帝の二人の支配者がいると紹介している。『日本誌』のオランダ語第二版の付録論文訳出した都筑忠雄が1801年に「鎖国論」と名付け、日本語における「鎖国」という言葉が誕生した。

日本を西欧に紹介した医師では、ケンペル(1651ー1716)、シーボルト(1796ー1866)、そしてベルツ1849ー1937)がいる。いずれもドイツ人である。シーボルトはその著書で、この同国の先人を顕彰している。

江戸時代の日本人の礼儀正しさは世界一であっただろう。その後、江戸から明治にかけて多くの外国人が日本国内を旅行し、同じ感想を述べている。渡辺京二『逝きし世の面影』は、江戸時代から明治中期までの期間に確かにあった美しい一つの文明の姿を、日本を訪れた外国人の観察を紹介した名著だが、ケンペルはそういう人々の先駈けであった。元箱根にはケンペルの碑がある。