山本周五郎の箴言集『泣き言はいわない』--「この世は巡礼である」

山本周五郎『泣き言はいわない』(新潮文庫)を読了。

山本周五郎ほど箴言の多い作家は珍しい。本の内容自体が箴言で成り立っていると言えるし、山本の酒じゃ説教酒で人生論が多く仲間からは敬遠されていたそうだ。その山本の小説の箴言のなかから編んだ箴言集である。

山本周五郎の人生の指針は、「苦しみつつ、なお働け、安住を求めるな この世は巡礼である」(ストリンドベリイ)。スエーデンの作家・ストロンドベリは「最も大きく且つ尊く良き師であり友である」と『青かべ日記』に記されている。 

泣き言はいわない (新潮文庫)

泣き言はいわない (新潮文庫)

 

 以下、私の心に響いた言葉をピックアップ。

・人生は教訓に満ちている。しかし万人にあてはまる教訓は一つもない。

・人間がこれだけはと思い切った事に十年しがみついていると大抵ものになるものだ。

・大切なのは為す事の結果ではなくて、為さんとする心にあると思います。その心さえたしかなら、結果の如何は問題ではないと信じます。

・持って生まれた性分というやつは面白い。こいつは大抵いじくっても直らないもののようである。

・能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしているんだよ。

・仕合わせとは仕合わせだということに気づかない状態だ。

・世間は絶間なく動いています、人間だって生活から離れると錆びます、怠惰は酸を含んでいますからね。

・養育するのではない、自分が子供から養育されるのだ、これが子供を育てる基本だ。

・およそ小説作者ならだれでもそうであろうが、書いてしまったもんおには興味を失うものだ。

・人間が生まれてくるということはそれだけで荘厳だ。

・人間の一生で、死ぬときほど美しく荘厳なものはない。それはたぶん、その人間が完成する瞬間だからであろう。

 

「副学長日誌・志塾の風」171124

10時:久米先生と懇談。

10時40分:授業「立志人物伝」。本日のテーマは「修養・鍛錬・研鑽」。安岡正篤二宮尊徳野口英世新渡戸稲造サトウハチローを取り上げて、映像や音声も含めて紹介。終了後のアンケートをみると、圧倒的に二宮尊徳への共感が大きいのに驚いた。

12時半T-Studioでの収録「名言との対話」。テーマは百寿のセンテナリアン。具体的には児童文学の石井桃子と、短歌の土屋文明

13時:事務局との定例ミーティング:杉田学部長。川手総務課長、水嶋教務課長。

 

「名言との対話」11月24日。川合玉堂「日曜も絵を描くし、遊ぼうと思えばやはり絵を描く」

川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年明治6年)11月24日 - 1957年昭和32年)6月30日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家

17歳で玉堂を名乗る。岡倉天心創立の日本美術院には当初から参加。日本画壇の中心人物の一人。67歳、文化勲章。戦時中は東京都西多摩御岳に疎開。その住居を「寓庵」、画室を「随軒」命名していた。日本の四季の山河と、人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描いた。

御岳(みたけ)にある日本画の巨匠・川合玉堂美術館に到着するが、突然の豪雨に襲われる。「滝のような雨」という表現があるが、まさにそのとおりの雨が降ってきた。日傘をさしながら美術館まで走る。すぐそばを走る多摩川上流の渓谷に水があふれて激流となって流れている。川合玉堂は19歳ほど年下の吉川英治とも親しかったそうだ。枯山水の庭に雨が降り注ぐ。閃光と落雷の轟音が鳴り響く。この景色も玉堂は何度も目にしたのだろうと思いながら、雨に煙る庭と林とその先に見える川の流れを眺める。この玉堂も国民的画家といわれた。この奥多摩には同時期に国民的作家と国民的画家が住んでいたことになる。

玉堂は書も、俳句、短歌も巧みであった。「河かりに孫のひろひしこの小石 すずりになりぬ歌かきて見し」。これは孫が拾った石を硯にして、座右の珍としたときの歌である。また「武蔵小金井」という駅名にひっかけて、「あの剣豪の宮本武蔵には子供があったかね」と尋ねていたという。玉堂はしゃれの名人でもあった。

晩年のインタビューで「先生、日曜日はどうしていらっしゃいますか、絵をお描きにならないときは何をしていらっしゃいますか」と聞かれたときの玉堂の答えだった。1年365日、絵のことを考え、ひたすら絵を描くという一直線の生涯であった。