センター試験二日目。「センター側のミスがあったのは多摩大(東京都多摩市)の会場、、、

センター試験二日目。

本日も多摩大・駒沢女子大の教職員のチームに対して、冒頭の挨拶。

初日にテレビ、ラジオ、新聞に載った多摩大で起きたトラブルについて説明した。本日の日経朝刊が詳しく書いているのでそれを引用。

「センター側のミスがあったのは多摩大(東京都多摩市)の会場。、、、センターの窓口に受験科目を変更できるか、電話で問い合わせた。直前の変更は認められないが、センター職員は『できます』と誤回答。、、時間に会場入りしなければならず、遅刻と見なされた。、、結果的に3時間繰り下げて授権が認められた。センターは『どの科目を受けないつもりなのかをきちんと確認せず、国語や外国語を受けないと誤認した」と説明している。」

この記事では「センター側のミス」「誤回答」「きちんと確認せず」「誤認した」と数回にわたってセンターの不手際を説明している。多摩大には問題はなかった。

 

 

「名言との対話」1月14日。和田勉「同じ役者とはほとんど二度と仕事をしない主義」

和田 勉(わだ べん、1930年昭和5年)6月3日 - 2011年平成23年)1月14日)は、日本演出家映画監督

高校2年の時に、父は本は好きなだけツケで買ってよいと言ってくれたため小説を読みふけった。新設の早稲田大学第一文学部演劇科に入り、卒論は「テレビドラマ」を選んでいる。そして就職は職員の公募が唯一だった「文化(テレビドラマ)」が作れるNHKに入社する。最初の勤務に大阪勤務を希望している。東京にない3つのものを学ぶためであった。漫才、文楽、宝塚である。8年の大阪時代が「僕をつくった」と言う。こうやって和田勉の人生行路を眺めると、和田勉という人はなかなかの戦略家であることがわかる。そして迷うことなく一直線の人生を送っている。

「映画は見るものであり、テレビは聞くものである」

「テレビはアップだ」

「ドラマというものは『男と女』の『ツーショットから始まる』」

「同じ役者とはほとんど二度と仕事をしない主義」

「分秒進歩の中を突き進んできたわれらの『テレビ』」

「てれびじょんトハツヅメテイエバわが身のことでデアル」

テレビの勃興期を走った和田勉は「テレビが映画を打ち倒す」という気概で文化をつくるために邁進する。「竜馬がゆく」(司馬遼太郎)「阿修羅のごとく」(向田邦子)「鹿鳴館」(三島由紀夫)「天城越え」「朱鷺の墓」(五木寛之)などを演出しヒットした作品が多い。本人があげた代表作は、昭和34年の「日本の日蝕」(安部公房)と昭和55年の「ザ・商社」(松本清張」の二つである。

手がけた作品が芸術選奨文部大臣賞、放送文化基金賞本賞など軒並み賞を受賞している。“芸術祭男”の異名もある。妻は衣装デザイナーのワダエミ

定年後に、タモリの「笑っていいとも!」のレギュラーとして、「ガハハおじさん」と呼ばれた。日清、月桂冠、UCCなど企業のCM出演などでブレークし、思いがけずに茶の間でも人気がでた。その余録で信州松原湖にワダベン博物館を建てたている。

和田勉はメモ魔であり、それが発想のもととなった。また高校・大学時代から亡くなるまでずっと日記をつけていた。『テレビ自叙伝』の最大の資料がその日記だった。

ドラマのキャスティングでは一緒に仕事をするのは一回のみというルールを自分の課していた。そのため夏目雅子からは抗議を受けている。思うに、狎れることを恐れたのではないか。一作一作、新鮮な気持ちで作品を創っていく真摯な態度がNHKだけでなく、テレビを代表する名演出家を形づくったのだろう。

 

参考:和田勉『テレビ自叙伝』(岩波書店

 

テレビ自叙伝―さらばわが愛

テレビ自叙伝―さらばわが愛