江川卓と小林繁

1978から1979年にかけて起こったプロ野球江川事件。今回、小林繁について調べて、この事件の全体構造と当事者同士の関係がよくわかった。

 

「名言との対話」1月17日。小林繁「人生のバッターボックスに立ったら、見送りの三振だけはするな」

小林 繁(こばやし しげる1952年11月14日 - 2010年1月17日)は、プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ

ノンプロを経て、1972年に巨人に入団。1976年年、1977年に連続18勝をあげ最優秀投手となり長島強巨人の優勝に貢献。昭和54年、江川卓との電撃トレードで阪神に移籍し、22勝で最多勝投手。1977年年と1979年には沢村賞。11年間のプロ野球生活で、139勝95敗17セーブ。

巨人との契約時には「プロである以上、実力は金銭でしか算定されない」との考えで、当時の制限最高額である1000万円の契約金を要求。900万の契約金と、1年目に1勝すれば100万円を加えるという条件を勝ち取った。以後、この精神で球界で生きていった。

巨人が「空白の一日」を使って江川卓を獲得するために犠牲になって、阪神にトレードされて大きな話題になったのが小林繁である。野球協約では入団交渉はドラフト会議当日から翌年のドラフト会議の前々日となっていた。巨人はドラフト会議の前日に江川と入団契約を交わす。セ・リーグ会長は認めなかったが、巨人はドラフト会議をボイコット。ドラフト会議では阪神が江川との交渉権を獲得するが巨人は江川の地位保全東京地裁に行い、日本プロ野球機構を脱退し新リーグ設立に動く。機構の金子コミッショナーは「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」と強い要望を出し期限を1979年1月31日とした。その1月31日に小林はトレードを通告される。この日が運命の一日となった。

球界の盟主、紳士たれがモットーの巨人が禁じ手を使ったのだ。「野球を捨てる覚悟」で対応した26歳の小林は、悪役・江川とは対照的に一夜にして悲劇のヒーローになっ

た。この事件は毎日のようにマスコミに出て、国民的事件だった。

阪神の江本投手は「3本のハリガネを1本の束にしてより上げ、ハガネにし、さらにそのハリガネを束にしたような筋肉」と、著書『プロ野球を10倍楽しく見る方法』に書いている。小林は強靭な精神力で気迫で投げる投手だった。事件の翌年から小林は巨人戦で8連勝をかざっている。3つ年下の江川の生涯成績は9年間で135勝72敗3セーブ。江川は後に「自分は小林を抜くことができなかった」とコメントしている。

引退後は野球解説者、ニュースキャスターなどを経て、いくつかの球団の投手コーチなどを歴任している。2007年秋に黄桜のCMで互いに50代の大人になっていた二人が共演し「空白の一日」について語り合って話題になった。今回久しぶりにその映像をみて、この事件に翻弄された二人の人生を想った。

長い人生では勝負する時が何度かある。それはチャンスと危機が同時にみえる時だ。恐怖に負けて見送るか、乾坤一擲の勇気を出して飛び出すか。天に向かうか、谷底に落ちるかは分からない。それが運命の分かれ目になる。小林繁から学ぶことは、好球を見送って三振を宣言されるようなことはしないで、「思い切りバットを振れ」である。

 

参考:小林繁『男はいつも淋しいヒーロー』(プロメテウス出版社)

 

男はいつも淋しいヒーロー (エンターテイメントシリーズ)

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