相談。打ち合わせ。授業。録画。ミーティング。面会。移動。会議。相談。

「副学長日誌・志塾の風」180119

多摩キャンパス

・8時45分:高野課長と相談

・9時:秘書と打ち合わせ。講演準備、シラバス改訂、、、、。

・10時:客員の久米先生と懇談。午後の録画の打ち合わせ。

・10時40分:「立志人物伝」の14回目の授業

・12時半:T-Studioで久米先生と「トレンドウオッチング」の対談録画。30分。

・13時:事務局との定例ミーティング

・14時:多摩信金の長島部長が融資部長への異動の挨拶にみえる。地域支援部長の後任は川口幸子さん。

・14時半:知研の八木会長。岩澤さん。

 

杉田学部長の車で意見交換をしながら九段サテライトへ。

・16時半:学長主催のブランディングの会議(2学部1研究科)。構想力。シンガポール。オランダ。プレステージ。参画のプラットフォーム。高齢社会工学。大浮上作戦。日本全体。グローバルな視界。

・意見交換。私からは「総合力」「長寿社会工学」「日本型」「山野の美」「運動論」などの観点から意見を述べた。今年度に2回会議を予定。

・終了後、3階の文庫で、人事案件で学長と相談、説明、意見交換。

 

 

「名言との対話」。1月19日。大鵬横綱が物言いのつく相撲を取ったのが悪い」

大鵬 幸喜(たいほう こうき、1940年昭和15年5月29日 - 2013年(平成25年)1月19日)は、北海道川上郡弟子屈町川湯温泉(出生地は樺太敷香郡敷香町)出身の大相撲力士。第48代横綱

私は子ども時代の栃若時代では若乃花に熱中し、10代の柏鵬時代は大鵬のファンであった。大鵬は21歳で横綱になり、31歳で引退したから10年以上横綱を張っていた。双葉山大鵬北の湖千代の富士、、、と続く大横綱の中でも、特別な存在であった大鵬。中国の古典「荘子」の「逍遥遊」に出てくる大きな魚はひとたび鳥に化すと9万里を飛ぶ「鵬」となるという。そこから古典に詳しい師匠がこの四股名をつけてくれたものだ。この命名のとおり、この力士は大いなる鵬になった。

相手十分の相撲を取りながら勝つ相撲、自然体で応じてなお勝てる相撲が大鵬の相撲であるは、先輩から69連勝の「双葉山の強さは誰に対しても紙一重の強さだ」と聞いて興味深かったと言っている。タイプの近い双葉山という先達を目標に励んだのではないか。

「天才ではない」「努力型だ」「周囲のおだての乗ってしまったらおしまい。死ぬまで勉強」「相手が研究してくれば、その上をいく研究と稽古に励む。毎日毎日同じことの繰り返し。コツコツ、一つのことを繰り返し続けることです」

相撲は自分との戦いであり、「経験、体験、体得」していく、それが「相撲道」であるという大鵬は、心の硬さを調整し、柔軟な心を養うために、精神を鍛えていく。

優勝回数32回の大記録をつくるのだが、九州場所の宿舎・八大龍王寺の福山日種上人は32回の優勝を予言していた。いつの間にか、この予言が頭の中でこだましてその通りになったのだろう。

 

相撲取りは短命である。横綱を張った力士が長寿で還暦まで元気であることを祝って赤い綱を締めて土俵入りを行うという習慣がある。2000年に大鵬はこの栄誉に浴している。この土俵入りは太刀持ち北の湖、露払いが千代の富士という豪華版だった。

山形県鶴岡の横綱柏戸記念館には「阪神柏戸、目玉焼き」という言葉があったのに驚いて笑ったことがある。大鵬は、目標であり、ライバルであり、友人であった柏戸に出会えて本当に幸せだったと述懐している。大鵬柏戸戦は大鵬の21勝16敗だった。故郷・釧路の川湯温泉の「大鵬記念館」(川湯相撲記念館)にも訪問したい。

孫の三番目の幸之助はジャンボサイズで、娘婿の貴闘力と一緒に子どもの頃から相撲取りにさせようと考えていて、「大相撲三世の時代が来るかも知れない」と2001年に大鵬が語っている。この幸之助が2017年12月に大嶽部屋に入門した納谷である。大鵬の予言が当たるだろうか。

46連勝で物言いがついて戸田に負けたビデオをみると明らかに戸田の足が先に出ていて、当時は世紀の大誤審といわれた。しかし大鵬はあれでいいとし、「横綱が物言いのつく相撲を取ったのが悪い」とコメントしている。相撲道を信じて歩き具現した横綱であった。相撲は豊作を願って神前で行う祭祀であり、相撲社会の伝統を守らなければならない。現在の揺れる角界大鵬の相撲道の精神を絶やさずに繁栄を続けることを願う。

 

参考:大鵬幸喜『巨人、大鵬、卵焼き--私の履歴書』(日本経済新聞出版社

巨人、大鵬、卵焼き―私の履歴書

巨人、大鵬、卵焼き―私の履歴書