「副学長日誌・志塾の風」180121
サテライト入試の二日目。
大学のコートで東京都大学リーグの試合が行われていた。東京外語大と多摩大との試合を見たが、18対0という結果で勝利。今年のチームはさらに強くなっている。
荻窪の角川庭園を先日訪問した。
角川書店創業者の角川源義が住んだ場所で、住居跡は有形文化財として保存対象になている。角川の名前をもじって「幻戯山房」と名付けられていて、すぎなみ詩歌館という名称もついている。大出版社の創業者ではなく、俳人としての角川源義を顕彰した記念館だ。
大正6年富山県生まれ。13歳で俳句に興味を持つ。15歳、同郷の金尾梅がいた俳誌「草上」に投稿。22歳、國學院大學国文科に進学し、折口信夫、武田祐吉の指導を受ける。24歳、戦時のため繰り上げ卒業。昭和20年、角川書店創立。30歳、俳誌「古志」創刊(後に「季節」)。32歳、結婚。35歳、雑誌「俳句」創刊。41歳、「語り物文芸の発生」で文学博士。55歳、「雉子の声」で日本エッセイストクラブ賞。56歳、俳句文学館建設委員長。58歳(昭和50年)、逝去。昭和51年、句集「西行の目」に読売文学賞。
四高受験に失敗し浪人中に折口信夫『古代研究』に感激し、折口のいる大学に入ろうと決意する。父は反対であった。折口の短歌結社鳥船社に入門。折口は弟子が結社誌や同人誌に関係するとすぐに破門するので、句作を断念する。
昭和19年に「語り物文芸の発生」が完成するが、空襲で印刷所が被災しする。しかしゲラが残った。それが後の博士号論文となる。
27歳で中学校の教諭になるのだが、終戦時買った古本の空白に「目がつぶれる程本が読みたい」との書き込みがあり、教壇に立つより、出版をやろう決意すし、翌年に辞任する。多くの人々に志を訴えることができるからであった。角川源義の志は、短詩型文芸の啓蒙であった。
角川源義は、近代俳句のリーダとして飯田蛇笏と石田波郷を信奉していたが、二人とも死亡してしまう。
山本健吉の死によて「文人俳句」は終わったともいう。それは古典研究、民俗学、評論、俳句作など文芸全般の多岐にわたり立派な仕事をした人の句業である。
昭和21年、桑原武夫が雑誌「世界」に「第二芸術論」を発表した。それはトルストイ、ミケランジェロなどが代表する本物の芸術を第一芸術と呼び、俳句などを第二芸術と呼んだものだった。虚子などは「芸術として認めれたのだから、第二でもいいじゃないか」と開き直った。29歳の角川は反論した。地下の力こそ俳句の生命でアリ、庶民の娯楽こそ俳句の宿命であり、娯楽に文学意識などない。遊びの文芸というなら、漱石の「猫」は遊びの文学だ。芸術に第一も、第二もないという趣旨である。
昭和31年に処女歌集「ロダンの首」を発表。
同志350人を糾合し俳誌「河」を刊行。焦土の上に一本の緑樹を植える運動を起こそうというものだった。抒情の回復の叫びであった。俳句の世界に登場しつつあった無季・自由律を角川は許せなかった。この病理・病弊と闘った。
第三句集「神々の宴」では、古代復活を次の詩業とし、折口学を俳句によって樹立しようとした。
娘・真理の三回忌には「つくづく俳句をやっていて良かったとおもうよ」と語っている。苦難を克服して生きぬく発想の転換に意味があると「境涯俳句」も支持している。
「俳句はものを言ってはいけない文芸だ。言いたいことは抑えて季語に語らせればいい」と季語を重視した。
「一年一植」
清貧に 生きて 大志や 冬柑子
雪はねて けろんりんかんと 春日かな
作家の辺見じゅんは、角川源義の娘。民俗、太平洋戦争、短歌などで活躍した。
「日本の民話」シリーズ。「呪われたシルクロード」「男たちの大和」「探訪・北越雪譜の世界」「花冷え」など。

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