品川キャンパスで大学院運営委員会。

午前:立川で所用を済ます。

午後:日経新聞の中沢さんと待ち合わせて、日本地域社会研究所へ。

・落合社長に中沢さんを紹介。

・詩人の菊田守さんから俳句にまつわる話を聞く。芭蕉「比の秋は何で年寄る雲の鳥」。明治大で阿久悠と同期。柴生田稔が担任教授。西武信金本店長。先達詩人。北条冬彦。村野四郎。伊藤けいいち。丸山かおる賞。芭蕉は禅の修行者のような生き方、、、。

・喫茶でコーヒー飲みながら中沢さんと歓談。

 

夕刻:品川キャンパスで大学院運営委員会。

・志賀入試委員長:志入試センター会議

・徳岡研究科長:品川塾の件の提案

・2018年度事業計画。教務分科会。入試・広報分科会。院生分科会。、、、。

・「研究」について多摩大出版会の活用を提言。「シニア起業」と「優秀論文集」。

 

 

「名言との対話」1月25日。三木のり平「演技の勉強は、いつもじっと観察すること。面白い発見がある。それを芸にする。裏の裏を見る。仕掛けはどうなっているんだろうって思わないヤツに進歩はない」

三木 のり平(みき のりへい、1924年4月11日 - 1999年1月25日)は、昭和期俳優演出家コメディアン

「パーッといきましょう」が流行語になった森繁久弥の「社長シリーズ」や多摩ニュータンの開発時期のことがよくわかる「駅前シリーズ」などでの三枚目の役が有名で、これらの映画はよく観た記憶がある。しかし、三木のり平は「あんなの、実にくだらない映画ですからね」「作品なんてものじゃない」と言っている。代表作と言われるのは心外だったのは意外である。役者としての演技であって、日常は真面目な人だったのだ。

「師匠なし、弟子なし、友達なし」を自称する三木のり平は、「自分を甘やかさなかった」。そして「フリーの立場にいたからいろいろな仕事に出会えた。そこでまた勉強」した。「下積みが長い人ほどいい仕事をする」との観察にも納得する。

「スターは三船(敏郎)、役者は(三木)のり平」と言われた演技力で、森繁久弥有島一郎と並ぶ喜劇役者となった。森光子の「放浪記」などの演出を担当し、菊田一夫賞、読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞している。役者としての抜きんでた実力は、演出家としての力量に十分に反映されたのだ。

三木のり平は日大専門部芸術学科卒のインテリで、雑学の大家であった。吉原、「ありんす」言葉、旬、おから、蛤。ハマナシ、竹輪、田楽、ヌタ。竜田揚げ、つくね、つみれ、お別火、八重洲、有楽町、品川、代々木、上野、浜松町、、、などのネーミングの由来にも詳しい。この人は好奇心の強い勉強家である。

「男は女の過去を知りたがるが、女は男の未来を知りたがる」「男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる」「センスがないとナンセンスにはならないんだ」

三木のり平は多くの映画には出演したが、映画は監督のものであり、役者は部品だから、あまり好きでなかった。「舞台はいいよ。やっぱり生だもの。芝居は生にかぎるよ」「芝居はせりふだけじゃない。いろいろなものを客席とキャッチボールする」と舞台で芝居をする真剣勝負を好んだ。

 「はならっきょ」が記憶に残る桃屋のアニメCMは1958年から1998年まで40年間放送されたから、三木のり平は茶の間の人気者だったが、本質は優れた役者だった。いろいろな場所でじっと人間を観察する。そこで得たヒントを芸にまで練り込んでいく。観察、発見、仕掛け、芸という一連の流れを生涯続けた人である。観察眼、探究心、表現力、こういう姿勢は例えば大実業家・渋沢栄一など進歩を重ねる一流の人物に共通している。仕事師たらんとする職業人は三木のり平に学べ、である。

 

参考

のり平のパーッといきましょう

のり平のパーッといきましょう