菊田一夫「これが一生の仕事だと思うこと。舞台こそが我が命の場であると思うこと」

 

菊田一夫「これが一生の仕事だと思うこと。舞台こそが我が命の場であると思うこと」

菊田 一夫(きくた かずお、1908年3月1日 - 1973年4月4日)は、日本劇作家作詞家

 菊田一夫の少年時代は悲惨だった。小学校6年で退学させられ義父から丁稚奉公に出される。その上、借金のカタに二重に売られる。東京に出たが、小僧時代に貯めた金を盗まれる。それ以外にも散々であったが、雑誌の雑用をやって知り合ったサトウ・ハチローの家に居候する。しかし、菊田はペン一本で商業演劇のトップに登りつめる奇跡を起こす。

新カジノ座に入座して、サトウハチローから「脚本を書いてみないか」と勧められ、芝居が当たり、二作目も旋風を巻き起こす。23歳の菊田は座付き作者となり「先生」と呼ばれる。どの作品に対しても捨て身の除熱を注ぐ菊田は火野葦平『ロッパと兵隊』の舞台で火野が泣いているのをみて「一生を劇作に捧げよう」と決心した。どんな芝居を書いても水準以上の作品を書くことができた不思議な人物だった。

戦時中に疎開していた岩手県奥州市には記念館がある。『君の名は』で有名になった「東京の数寄屋橋公園には数寄屋橋 此処にありき」との自筆の碑がある。戦後は、戦争のない世の中になるように念願したものだけを書こうとした。世話になった小林一三の引きで東宝に入り、演劇担当の取締役に就任。47歳だった。『がめつい奴』『放浪記』『風とともに去りぬ』、、、などの代表作を連発して、菊田一夫は「天皇」とまで呼ばれるようになる。人口に膾炙した「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓ふ心のかなしさよ」は、ラジオドラマ『君の名は』で一世を風靡した。放送時間には女湯が空になったほどの人気だった。

菊田は「役者殺すにゃ刃物はいらぬ ものの三度も褒めりゃよい」と言ったのだが、女優の草笛光子は菊田は偉ぶるところはまったくない人であるとし、無理難題を言って「おれは猿回し、お前さんは猿だ。猿は猿回しの言うことを聞かなきゃいけないんだぞ」と説得され、吹き出してしまい「やります」と答えてしまったという。菊田は「かわいい方」だったと日経「私の履歴書」(2018年1月)で回想している。

商業演劇が光を放った昭和30年代後半から40年にかけては、まさに菊田一夫の時代であった。菊田は、舞台という一生の仕事に命をかけ、命を削った。数奇な運命をたどった菊田一夫は65歳で没した。

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今日の収穫

渡部昇一

機械的な仕事の方法こそが、決定的に重要である。(私の場合は、毎朝のブログ)

高齢者に適しているのは「人間学」だと思う。「修養」といってもいいかもしれない。人間学の中心になるのは古典や歴史だ。、、、修養は不滅である。人間学を学んで修養を積んでいる人は、いつまでも衰えない。(私の場合は、人物記念館の旅)

・人生においては、短い名句が力になることがある。(私の場合は、「名言との対話」がそれにあたる)

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「名言との対話(平成命日編)」2月4日。芦野宏シャンソンは『こころの歌』とも言われていますが、歌い手の人柄や人生が、歌の中に現れてくるものだと思います」

芦野 宏(あしの ひろし、1924年6月18日 - 2012年2月4日)は、日本シャンソン歌手声楽家

日本に於ける1950年代後半から1960年代前半にかけてのシャンソン・ブームの立役者のひとりでもあり、『NHK紅白歌合戦』には1955年から10年連続出場を果たしている。また、俳優としてもテレビドラマ『コメットさん』(1967年TBS国際放映)や映画『天使の誘惑』(1968年松竹)に出演している。テレビでうたう姿は記憶にある。

1995年に私財を投じて日本シャンソン館群馬県渋川市に開設し、自ら館長としてシャンソンに関する資料収集や展示、又はミニライブなどのイベントを積極的に進めた。日本シャンソン館は、1階展示室・2階展示室・多目的ホールシャンソンライブをおこなえるシャンソニエなどがある本館、保存庫、パリのカフェを再現したカフェ「ロゾー」、日本一の品揃えを誇るショップ、四季折々の草花のある庭園がある本格的なものであり、現在も稼働している。志をこのような形で残すことは素晴らしい。

2010年7月には石井好子の後を受けて第2代日本シャンソン協会会長に就任し、後進の育成と指導、そして現役歌手としての音楽活動も行っていた。

「生涯、大好きな歌に生きて、皆様に愛され、惜しまれながら旅立つことが出来て幸福な人生だったと思われます」と夫人はお別れの会で礼状に記している。

芦野が歌った「幸せを売る男」の歌詞は「心にうたし 投げかけ歩く 私は街の 幸せ売りよ いかがですか そわかときくあ  いかがですか ありがとうは 私どもの商売は 幸せ売る商売 夏も秋もいつの日も 歩きまわる仕事  あなた方が悩み深く 笑うことを忘れた時  この私を思い出せば 悩みなどは消えて笑顔」である。
「歌い手の人柄や人生が、歌の中に現れてくる」。これはある歌い手に対して芦野が語った言葉だが、それは芦野自身についても言えることだろう。「幸せを売る男」の歌詞と歌う姿を思い出すと、シャンソン歌手としての芦野は、まさに幸せを売る男だったという感じがする。