山崎朋子『サンダカンまで わたしの生きてきた道』

 山崎朋子『サンダカンまで わたしの生きてきた道』(朝日文庫)を読了。

 ラジオの文化講演会で講演を聴いて興味を持った人。この本を読んでその生き方に感心した。『サンンダカン八番娼館』という映画は観たことがある。小説も読んだ。

サンダカンまで わたしが生きた道 (朝日文庫)

サンダカンまで わたしが生きた道 (朝日文庫)

 

1954年女優を目指し上京。朝鮮人 青年との恋、暴漢に顔を切られる事故、結婚、出産を経て女性史研究の道を歩む。波乱の自分史だ。

1966年、34歳『日本の幼稚園』で毎日出版文化賞。1973年、41歳『サンンダカン八番娼館』で第4回大宅壮一ノンフィクション賞。1980年、『光ほのかなれども--二葉保育園と徳永恕』で日本保育学会賞。

「自分のテーマ」を追う「自分の会」をつくる決心、そして勉強法が参考になる。

上 笙一郎(夫)「自分で学びとろう」という姿勢が一番大事。書くことが最大の勉強になっている。良い修行になる」。自分のテーマ「アジア女性交流の歴史を掘りおこす仕事」を題材に自分で、学ぶ。(独学で学ぶ態度)

尾崎秀樹(ほっき)「そういう会はどこにもないですね。、、、自分でつくりなさい。人数はどんなに少なくても良いから。それが、一等良い勉強になりますよ」。自分の会として「アジア女性交流史研究会」という小さな自分の会を立ち上げる。小さな雑誌を創刊する。(機関誌が重要ということだ。それが人脈となっていく)

・「聞き書き」を主題として「人物幼稚園史」を連載する。日本の幼児保育=教育の歩みを人物に依って綴る。この連載がもっとも良勉強になった。明治期より現代まで、ユニークな実践をおこなった施設または人物によって、「歴史の要点」を浮き彫りにしていくという方法を採った。(人物を中心とした歴史という視点)

 

最後の数ページが圧巻だった。

・「自分の眼」で見て、、、、そういう人を、多くの男性の中から「選んだ」のである。たまたまではない。

・ひたすらに男性の「思想・人柄」を見ようとしていた。、、、その人の「志」というものの有り無しを「選びの規準」としていた。

・漢字の「志」は士(サムライ)の心。大和言葉の「こころざし」は、ひとつの主題・ひとりの人物・ひとつの事柄にみうzからの「心を刺す」こと。

・自分が生きた証をこの世に残すには、みずからの「心を刺した」主題を、その望み選んだ形において実現するしかないだろう。

・人を取り巻く諸種の「条件」の有利・不利によって人生のつれあいを選ぶのでなく、人の「志」を「もって選ぶこと。

・不幸に拉がれ終わるのでなく、それに学んで向日敵に生きようと決意しいささかながらそのようい歩めたことは幸せであったと言わなくてはならないのだろう。

「顔を出す必要のないラジオは別として、テレビ出演を断ることとし、その後ずっと通している」という方針があるあら、この人のことは馴染みがなかったのだ。厳しい生き方、学び方には感銘を受けた。

 

 

「名言との対話(平成命日編)」2月11日。玉置宏「一週間のご無沙汰でした」

玉置 宏(たまおき ひろし、1934年1月5日 - 2010年2月11日)は、日本フリーアナウンサー司会者である。文化放送アナウンサー

文化放送の入社試験では寄席通いで覚えたしゃべりのコツが役に立った。文楽三木助などの古典落語はテンポ、間の取り方などアナウンサーの手本だと玉置はいう。

1958年から1979年にかけての人気歌謡番組「ロッテ歌のアルバム」で軽妙な司会をつとめていた玉置宏は、毎週日曜日午後の「お口の恋人・ロッテ提供、ロッテ歌のアルバム」「一週間のご無沙汰でした。司会の玉置宏でございます」と必ず始めたから、今も耳に残っている。歌謡スターがきらめいていた「潮来笠」でデビューしたいなせな橋幸夫、白い八重歯のの高校生・舟木一夫クラウンレコードから「君だけを」でデビューし60万枚を売り上げたモダンボーイ西郷照彦、それに割って入った吉田学校の三田明。御三家、四天王の時代である。玉置は、放送1000回となる1977年8月7日放送分をもって番組を勇退している。。

曲紹介ナレーション。テレビで聞いたはずの七五調のナレーションをピックアップ。

橋幸夫「雨の中の二人」。一人求める 幸せよりも 二人で生きる 幸せが こんなに素敵なものだとは、、、肩を寄せ合う「雨の中の二人」

舟木一夫「高校三年生」。にきびも出ていた けんかもした 勉強まなけて 遊んでばかり けれども 夢があったじゃないか 未来の希望があったじゃないか 「高校三年生」

・三田明「美しい十代」。青春の扉を開き 青春の門を 通り過ぎたあの日 激励(はげまし)あった 君と僕 あれから 間もなく三十年 「美しい十代」

視聴者に取って聞きやすい速さについて、長年の経験から玉置宏は「一分間に360字」と結論づけている。自分の会話を録音して声の質、スピードを把握して練習するのがいいそうだ。

NHKラジオ第1で『ラジオ名人寄席』で長年放送し番組席亭(番組進行、解説役)を務めていたこともあり、2002年開設の横浜にぎわい座の初代館長に就任する。2007年の「第12回林家彦六賞」に於いて、「寄席関係に貢献、話芸の発展に尽力した」との事で「彦六特別賞」が贈られた。玉置の話芸の原点は落語だった。

歌謡界、歌手、歌についての豊富な知識、「同じ曲紹介は絶対しません」と毎回ナレーションの内容を考える誠実さ、そしてしゃべりへのあくなき向上心。玉置宏の独特な存在感は昭和という時代の一つの象徴でもあった。