多摩大TーStudio「名言との対話」第28回--河原淳。小西和人。松本重治。坂田道太。大島渚。

多摩大T-Studio「名言との対話」第28回。

取り上げた人物「河原淳。小西和人。松本重治。坂田道太大島渚

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河原淳「ぼくの人生はおおかたのぞきに費やされてきました」

小西和人「釣りに国境なし」

松本重治「日米関係は日中関係である」

淡路恵子「体から心まで、とにかく自分のことは自分で管理していないと、女優はつとまらないわよね」

坂田道太「むしろ素人の方がよい」

大島渚「情報もいいでしょう。でも、生の体験は強い」

 

 

「名言との対話」2月26日。宮脇俊三「彼ら(車窓風景)は見てくれと私に言う。しかし同時に、おれのことをお前、書けるのか、と言っているように思われるのだ」

宮脇 俊三(みやわき しゅんぞう、1926年12月9日 - 2003年2月26日)は、日本の編集者紀行作家
宮脇は大学を卒業後、中央公論社に入社。編集者として、『日本の歴史』シリーズや『世界の歴史』シリーズ、北杜夫の『ドクトルマンボウ』シリーズなど、数々のヒット作を世に送り出し、『中央公論』誌の編集長などを歴任する。51歳、常務取締役を最後に退職。

実は宮脇には、仕事以外に打ち込んでいたことがありました。それは、旅。それも鉄道旅行である。子どもの頃からの趣味である鉄道旅行をずっと続け、50歳では国鉄全線を完全に乗り切る。6月30日退職、そして7月10日『時刻表2万キロ』でデビュー。この作品で日本ノンフィクション賞を受賞。その後も、『最長片道切符の旅』『時刻表昭和史』『時刻表一人旅』『インド鉄道旅行』など、数多くの著作を著わし、紀行作家として不動の地位を築いた。54歳では「時刻表昭和史」が交通図書賞を受賞、58歳、「殺意の風景」で泉鏡花文学賞、65歳、「韓国・サハリン 鉄道紀行」で第1回JTB紀行文学大賞、72歳では鉄道紀行を文芸のジャンルとして確立したとの理由で菊池寛賞を受賞している。76歳で亡くなったが、戒名は「鉄道院周遊俊妙居士」といいう、いかにもというものだった。

国鉄全線完乗という愚かな行為」「この阿保らしき時刻表極道の物語」と自らを笑う宮脇は、自らのことを「珍獣」と呼んでいた。自らを「時刻表極道」と呼んでいた。奥さんは同行しないのか、というインタビューの質問に対する答えがふるっている。「ええ、私は汽車に乗るのが手段でなく目的だから、利害が対立して、能率半減になるんで」。

「旅はほんらい「線」であった。目的地があっても、そこに至る道程のなかに旅のよさがあった。「おくのほそ道」にしろ「東海道中膝栗毛」にしろ、そこに描かれたのは「点」よりももしろ「線」である」

「注文が多く、東奔西走の日々」と本人が言っていたように、昭和56年から58年までの3年間のスケジュール表を企画展でみたが、ほとんど休みなく日本全国を駆け巡る宮脇の姿が思い浮かぶ過酷な日程表だ。鉄道紀行は、移動自体が目的となっており、尋常ならざる体力と気力が要求される。旅行の携行品を記す。時刻表、地図1(25万分の1.車窓用)、地図2(2万5千分の1。歩いてみたいところ用)、歴史の本(文庫版の県別史)、ガイドブック、洗濯用ロープ(二日にいちいちはバス付きのホテルに泊まり下着を洗濯!)、針と糸、保健薬一式(ビタミンCや葉緑素)、痔の座薬(長いこと座っているので用心のため)、虫よけスプレー(史跡にはやぶ蚊が多い)、ウイスキーのポケット瓶(寝酒用)、スリッパ(車中用)、帽子、空気枕(車中の居眠り用)、小バッグ(丸えると手の中に入るくらいの薄地のもの)、メモ帳。カメラは原則として携行しない。旅の様子が目に見えるようだ。旅の達人の旅行道具には興味津津。

宮脇俊三はのめり込んだ対象(車窓風景)から、「おれのことをお前、書けるのか」と挑まれている。ある対象(例えば人物)に惚れて没頭してそれをまとめようとするとき、その対象から「俺を書けるか?」と挑戦される心持ちがするときが私にもある。宮脇に倣って「人物記念館極道(?)」への道を歩むことにしようか。

 

時刻表2万キロ (河出文庫 み 4-1)