「日経ビジネスアソシエ」5月号にインタビュー記事「遅咲き」。昭島市と多摩大学の連携に関する協定の締結式」。グローバルスタディーズ学部運営委員会。

本日発売の「日経ビジネスアソシエ」5月号にインタビュー記事。「40代を後悔しないためにすべきこと72」特集の中で、「いくつになっても開花はできる 遅咲き経営者の多作期人生」という4ページのコーナーの解説者として登場。

日経ビジネスアソシエ 2018年 5 月号

人生100年時代は、2期作、3期作の働き方の時代という考えに基づいて、日清食品安藤百福マクドナルドのレイ・クロック、ケンタッキーフライドチキンカーネル・サンダースの人生を分析した。

「早咲きの天才型とは異なり、遅咲きの人は失敗や挫折を繰り返した期間が長く、努力型が多い。じっくりと自身の力で成熟しています、だからこそ、その生き方や働き方、彼らが絞り出した至言は時代を超えて我々の心を打ち、壁にぶつかった時に勇気づけられるのです」など、9回ほどコメントしている。

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「副学長日誌・志塾の風」180410

14時:市役所の市民ホールで開催された「昭島市多摩大学の連携に関する協定の締結式」に出席。

基調講演は寺島学長。「多摩のDNA.北多摩。江戸時代の八王子千人同心。明治の自由民権運動。戦後の自由大学・五日市憲法。中央リニアと圏央道(4車線化も)。物流と人流。相模原インパクト。ヤマト、アアマゾン、、。首都圏3環状が重要。国道16号線沿いの団地。都市の高齢化。単身化。ジェロントロジー=高齢化社会工学。100歳人生。昭島は第一次産業も。

松本先生地域活性化マネジメントセンター長から「昭島市産業活性化のための協創プロジェクト概要」の説明。「プロジェクト推進会議(昭島市多摩大学・多摩信金昭島市商工界・昭島観光まちづくり協会等)の設置。昭島市「工業の見える化」プロジェクト。ビッグデータ活用による商業活性化調査プロジェクト、、)。

終了後、湘南台へ向かう。拝島駅から八高線で八王子へ12分、八王子から橋本へ13分だから、中央リニア相模原へは25分。

17時半:湘南台のグローバルスタディーズ学部の学部運営委員会に出席。教育、入試、就職などを含めた2017年度の全体像がわかった。成果が出てきている。

 

「名言との対話」4月10日。菅洋志「一番高いところ、一番前など、見晴らしの良い場所を確保し、シャッターを押す」

菅 洋志(すが ひろし 1945年7月9日-2013年4月10日)は、写真家。

1987年に「バリ・超夢幻界」で土門拳賞。昨年、写真展「生きる―東日本大震災から一年」の実行委員長を務めた。日本写真家協会常務理事。

以下、『日本美術年鑑』平成26年版の紹介。

「福岡県福岡市に生れる。68年日本大学芸術学部写真学科卒業。大学の先輩にあたる木村惠一と熊切圭介の協同事務所K2で約一年間アシスタントを務める。69年より約一年半ネパールに滞在、同地で中国からのチベット族の難民を取材し、帰国後、初の個展「チベット難民」(銀座ニコンサロン、1970年)を開催した。以降もアジア各地での撮影を重ねるとともに、アジアの人と風土へのまなざしの原点として、自身の原体験でもある故郷福岡の博多祇園山笠の撮影にとりくんだ。83年、写真集『博多祇園山笠』(講談社)、『魔界 天界 不思議界 バリ』(講談社)を刊行。84年には一連のアジア取材の成果として雑誌に発表された「戦火くすぶるアンコールワット」他の作品により第15回講談社出版文化賞写真賞を受賞した。87年には写真集『バリ・超夢幻界』(旺文社、1987年)で第6回土門拳賞を受賞、1998(平成10)年には写真集『ミャンマー黄金』(東方出版、1997年)で第14回東川賞国内作家賞を受賞した。日本国内およびアジア各地での取材対象は、背後にあるアジア共通のコスモロジーへの関心を基盤としつつ、土地ごとの自然や風土に根ざした人々の生活や信仰、祭礼など多岐に及び、カラーフィルムを駆使した独特の色彩の写真による作品世界を構築した。アジアをめぐる取材を重ねる一方で、児童福祉施設や盲学校などに取材した子供たちをめぐる仕事にも長年にわたってライフワークとしてとりくんだ。」

30代のJAL広報部時代にオーストラリアに新しい路線をひいたときのメディアツアーで、菅洋志と緒に旅行をしたことがある。同じ行程を歩んでいるのに、彼の撮った写真は皆より抜きん出ていた。この人はバスに乗るときはドライバーの真後ろに陣取る、史跡を訪ねるときは、ちょっと小高くなった場所でシャッターを押している。面白い構図が生まれるし、シャッターチャンスも逃さない、したがって、優れた写真が出来上がる。「一番高いところ、一番前など、見晴らしの良い場所を確保する」のが優れた仕事をする秘密であると説明を受けて感心した。その時、「日本の棄民」というテーマで北朝鮮への渡航花嫁、南米の海外移民、戦後もアジアに住み着いた人々などの写真集を出したいと言っていたが、どうなっただろうか。

写真集『アジア夢紀行』を発表したのは1987年で菅は42歳あたりだ。この頃の菅に私も会っていることになる。「堂々と写真を撮り、そして納得のいくところで発表をしたい」と決意を述べている菅は、仕事と私事の双方を意識していた。私事には「ライフワーク」と振り仮名を振っている。このエッセイの最後は「さあ、ドキュメンタリーが面白い時代になってきたぞ」と結んでいる。それから四半世紀、菅洋志は67歳で逝った。

日本海軍の艦長はその艦で最も高性能の双眼鏡を持っていた。それは戦況の確認や決断を迫られたときに、リーダーという重責にあるものは、最も「見晴らし」がよくなくてはならないという考え方の反映であった。見晴らしがいいポジションにいると状況が人よりよく見えるから、判断が正しくなる可能性が高くなる。つまり位置取りが大切なのだ。同じ能力なら、位置取りしだいでより高い見晴らし台を手に入れることができる。その経験がさらに高い場所へと人を誘導するのだ。優れたリーダーと接していると「見ている景色が違うなあ」と感心させられることを経験している人も多いだろう。彼は高いところから問題を眺めている。こういう視点を持った人は、役職に関係なく、ごく自然にリーダーに押されるはずだ。リーダーとその他のフォローワーの違いは何か。それは、見晴らしである。見晴らしのいい場所に立つ、これがリーダーになるための心構えである。日本には鳥瞰図絵師という名前の画家がいて、日本各地の風景をまるで鳥が空から見たように描くことができた。見晴らしがいいとは、その鳥瞰図絵師たちの視点を持つことだ。