2018年度のインターゼミ(社会工学研究会)は史上最高の人数と最強の布陣。

 昼:品川キャンパス:大学院教授会。

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午後:東京ステーションギャラリーの「隈研吾展」。

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夕:九段サテライト:インターゼミ(社会工学研究会)の2018年度の初回。史上最大の人数となった。椅子が足りずに立ち見があった。

経営情報学部31名・グローバルスタディーズ学部9名で40名(4年生8・3年生4・2年生14/1年生10・留学生3。継続12・新規27・復活3)。社会人大学院13名。OB15名(学部2・大学院13)。受講生は63名。教授陣:学長以下17名。総勢80名。

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私から:多摩大の現況説明:インターゼミ10年目。ヨコヘの広がりとタテへの広がり。「ゼミの多摩大」の代表的ゼミに進化。一年かけて論文に仕上げる。横でやっているテーマを睨む。多摩学・アジア・サービス・環境・AI.文献研究とフィールドワーク。受講生にとってはヨコとタテの深い人間関係・学長の最新情報講義で世界の動きを理解。教授陣にとっては両学部の交流、新人教員の教育の場、そしてスムーズな大学運営に意味。新人教授陣の紹介:初美先生。後藤先生。加藤先生。渡辺先生。

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 学長講話。

社会工学研究会。ソーシャルエンジニアリング。文献研究(メソドロジー社会工学的方法論)とフィールドワーク(現場)。9年間の論文を読め。スマホ人生。自前の情報環境。ヒューマンリレーションマップ(人間関係)とアセットマップ(資産)。

・多摩学:ジェロントロジー(高齢化社会工学)。平成狸合戦ぽんぽこ。駅前団地(森繁)。一歩前へ。アジア:東アジアの動向を視野に。サービス:ディズニーとショッピングモー深めるか。エンタメパークの9割はディズニーとUSJ(みんなが行く所に行く)。AKB48・ジャニーズ(普通のスターを愛でる)。AI:深めていくべきテーマ。デジタルエコノミーか。ファーガ+M(フェイスブック・アップル・アマゾン・グーグル。マイクロスフト)5社で時価総額400兆円。中国のテンセントとアリババで100兆円。トヨタ22兆、日立4兆。地域と環境・エネルギー:活性化、、。

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 「名言との対話(平成命日編)」4月14日。三國連太郎「自分の器量に過不足のない物選び、それができれば一人前」

三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年大正12年)1月20日 - 2013年平成25年)4月14日)は、日本俳優

紆余曲折を経て、上京して間もない27歳のとき、新橋を歩いていたらスカウトされる、「飯が食えるなら」と引き受けて俳優になる。1951年(昭和26年)、木下恵介の監督映画『善魔』に、松山善三の推薦により抜擢され28歳でデビューし、役名の「三國連太郎」を芸名にする。

主な映画は以下で本数は180本余に及んでいる。にっぽん泥棒物語』(1965年)。『飢餓海峡』(1966年)。『神々の深き欲望』(1968年)。『八甲田山』(1977年)。『復讐するは我にあり』(1979年)。『利休』(1989年)。『息子』(1991年)。役者馬鹿とも言われ、怪優・奇人とも称される。

結婚を4度。俳優の佐藤浩市は3番目の妻との間にできた息子だ。『人間の約束』で息子・佐藤とワンシーンのみの初共演を果たした後、『美味しんぼ』で本格的に親子の役を演じた。『笑っていいとも』に出演した際には「佐藤浩市くんの演技がよかったです」とコメントしている。佐藤はひどい父親だと恨み節を語っている姿をテレビのインタビューで見たことがある。

三國は小説家でもある。10年の歳月をかけて書いた『白い道 法然親鸞とその時代 (全3巻)』(毎日新聞社、1982年/講談社文庫、1986年) は話題になった。講演を依頼したことがあったが、なしのつぶてだったことを思い出した。映画化されたときには監督もつとめている。

「60年近い俳優人生を振り返ってみると、「僕ほど出会いに恵まれた人間はいない」とつくづく思います」「自分という容器の中で、自分の体や感情の中にある役柄との共通点を取り出して、そこを原点に精一杯演じていく。その方法しかないと思っています」「人々の生活の糧になるような映画に出たい」「『こういう役』というのではなくて、『燃やすこと』のできる役ですね。自分の中で燃焼させる何かを感じる役。燃焼し尽くしてはいけないのですけれども。そして、『人間として何かを訴える』ことができる役柄ですね。これが役者の使命じゃないかなと」「自分が正しいと思う方向に向かって正々堂々と歩く。死ぬまで歩けるその人生さえ構築できれば、自分自身の中で精神的に敗北することはない」「自分という容器の中で、自分の体や感情の中にある役柄との共通点を取り出して、そこを原点に精一杯演じていく。その方法しかないと思っています」

映画は手織物であり、関係する人間たちの情熱の糸が織りなすものだと信じている三國連太郎は惚れた映画の仕事に生涯を賭けた。納得のいく地点まで登ろうとした役者人生を満喫したのだ。

「僕も不器用なんだよ、不器用な方がいいんだ」という三國連太郎は、脚本を徹底的に読み込む役者だった。舞台の場合では500回以上、映画でも最低100回以上読むことにしていた。その過程で意欲を湧かせていたのである。

世田谷・砧にある自宅の2階の書斎は10畳ほどの空間とそれに続くテラスがあった。そこには自身の眼で確かめた眼鏡、鞄、万年筆などの愛用品が並んでいた。自分の器量にふさわしい物選びをしていたのである。この趣味人が生前に大人のための上質な素材と細部までこだわった作りで定評のある「パパス」のモデルになったのを覚えている。それは優れた人選だったのだ。

三国連太郎 出逢いの哲学