2018年度インターゼミ(社会工学研究会)の運営体制が決まる。

インターゼミ(社会工学研究会)。

10年目である2018年度の運営体制(班・教授陣・学生)が決定。

全員が第一志望の班に配属となった。上下左右のバランスもいい。楽しみな1年となりそうだ。

 

多摩学班

・経営情報5名。グローバルスタディーズ学部0名。大学院3名。計8名。

・教授陣:責任者:丹下先生。副責任者:初見先生。荻野先生。

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サービス・エンターテイメント班

・経営情報10名。グローバル1名。大学院等2名。計13名。

・教授陣:任者:大場先生。副責任者・バートル先生。杉田先生。安田先生。

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地域班。

・経営情報5名。グローバル1名。大学院等3名。

・教授陣:責任者:野坂先生。副:後藤先生。木村先生。

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AI班。

・経営情報6名。グローバル4名。大学院等2名。

・教授陣:責任者:久保田先生。副:渡邊先生。(久恒)。

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アジアダイナミズム班。

・経営情報2名。グローバル3名。大学院等4名。

・教授陣:責任者:金先生。副:水盛先生。加藤先生。

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「名言との対話(平成命日編)」4月28日。「与えられたテーマに自分なりの『見い出し方』を持ち込むことができたら、デザインはデザインを超えていく」

粟津 潔(あわづ きよし、1929年2月19日 - 2009年4月28日)は日本グラフィックデザイナー

1955年、ポスター作品『海を返せ』で『日本宣伝美術会賞』受賞。戦後日本のグラフィックデザインを牽引し、さらに、デザイン、印刷技術によるイメージの複製と量産自体を表現として拡張していった。1960年、建築運動「メタボリズム」に参加、1977年、『サンパウロビエンナーレ』に『グラフィズム三部作』を出品。1980年代以降は、象形文字やアメリカ先住民の文字調査を実施。イメージ、伝えること、ひいては、生きとし生けるものの総体のなかで人間の存在を問い続けた。その表現活動の先見性と総合性は、現在も大きな影響を与えている。

粟津の受けた賞をあげてみよう。1955年日本宣伝美術会展、日宣美賞。1958年世界フィルムポスターコンペフランス最優秀賞。1966年毎日産業デザイン賞。1969年映画近松門左衛門の「心中天網島」の美術で伊藤喜朔賞。1970年ワルシャワ・国際ポスター・ビエンナーレ展銀賞及び特別賞。1975年「世界で最も美しい本の展覧会」グランプリ。1980年映画「夜叉ヶ池」日本映画アカデミー最優秀美術賞。1990年紫綬褒章受章など実に多く、かつ多彩である。

粟津潔の肩書きはグラフィックデザイナーだが、その表現の領域は、絵画やポスターから、マンガ、映画美術、さらにパフォーマンスや空間設計まで、一人の人間がここまでできるのかと思うほどと多岐にわたり壮観だ。津山文化センター中庭、「サンパウロビエンナーレ」「大阪万博」「渋谷・天井桟敷館」、「メタボリズム」、出雲大社、高速道路の標識フォント、映画『心中天網島』の美術監督、日本デザイン会議のポスター、世界デザイン博のポスター、、、。「私はすべての表現分野の境界を取り除いて、階級、分類、格差とかも全部取り除いてしまいたい」。粟津は越境する人だった。息子の粟津ケンは「巻き込み / 巻き込まれ上手」だったと述懐している。

粟津潔は法政大学専門部中退で、絵画デザイン技法は独学で学んでいるのには驚いた。「知識がないところからやる辛さと、それで失敗しまくりながらも世界を広げて」いったのである。著書『造型思考ノート』では、フリーランスでどこにも所属せずにやっていく気持ちを「とにかく不安」と認めつつ、でも依頼仕事も相手のご機嫌伺いではなく、むしろ自分が今やりたい作品にしてしまおう」としていたことを述べている。アーチスト(芸術家)ではなくアルチザン(職人)であった。それをデザイナー、現代ではグラフィックデザイナーと呼ぶのである。

自分の舞台を創るところから始める起業家は、いわばアーチストである。相手が用意したテーマを予算や時間の制約の中で解答を出すビジネスマンは、いわばデザイナーである。デザインの過程で自分という個性を表現できるようになったら、デザインはデザインを超えていく。そして分野を自在に越境していけるようになる。粟津潔のようなデザイナーを志したいものである。