連休明けは、国際交流センター運営委員会から始まる。

午前:国際交流センター運営委員会(バートル教授が新センター長)。

湘南キャンパスとは遠隔会議システムを使っての会議。

以下、課題:センターポリシーの再設定が必要。外国人教員比率。留学生の割合。海外派遣人数の目標。両学部の留学プログラムの相互乗り入れ。私費留学生の保証人問題。改革総合への対応。、、、、。

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 ・国際交流センターの目的は何か?「多摩グローカル人材」の育成ではないか。ここを起点にしてやるべきことを全学的に再度考えることが必要だと思う。

・センター長の座る位置にも工夫が必要。・ZOOM。

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杉田学部長:入試関係の意見交換。

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  午後:九段の寺島文庫で寺島さんとJAL幹部との会合に同席。

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スーパーメガリージョン。リコー・沖電気・ALSOK。データリズム。IOTはサバイバルファクター。銀行。中国20年後に6倍。アジアダイナミズム。1.5万ドルで個人旅行。構想力。マン投資顧問。MOOK.ジェロントロジー。氏素性。、、、。

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「名言との対話(平成命日編)」5月6日。安宅英一「人でも、ものでも、結局のところは品ですね。品格が大切です」

安宅 英一(あたか えいいち、1901年1月1日 - 1994年5月7日)はかつての総合商社安宅産業の会長で、同時に芸術のパトロンである。

安宅英一は神戸高商を出て、父の安宅弥吉の安宅商会に入る。弥吉は禅の研究家・鈴木大拙の援助者としても有名で「君は学問の道を貫き給え、私は商売に専念して一生、君を支える」と言い生涯にわたって大拙に資金援助を行った。英一は30代半ばから陶磁器や音楽に関する活動を始めている。35歳で双葉山の後援者になった英一は、50歳のとき安宅産業の事業の一環として美術品購入が認められると本格的な蒐集を開始する。戦後のシャウプ税制によって美術品の大量流出が起こり、速水御舟の作品を一括買い上げたところから、コレクションが始まる。そして速水御舟の作品に加えて韓国陶磁、中国陶磁という3つのジャンルからなる安宅コレクションが完成していく。

54歳で会長になった英一は、58歳で中村紘子に会い、60歳では日本音楽コンクールに安宅賞を設けている。64歳、相談役。67歳、最大の理解者となった日経新聞の後の社長・円城寺次郎と出会う。74歳のときに起こった巨大な債権の焦げ付きでコレクション購入を停止。79歳、コレクションを大阪市に寄贈。93歳、死去。

福岡市美術館で開催中された「安宅コレクション 美の求道者・安宅英一の眼」を観た。総合商社安宅産業は経営危機から1977年に伊藤忠商事救済合併されたが、残っているのは会長だった安宅英一がつくりあげた東洋磁器の1000点に及ぶ安宅コレクションだけである。曲折あって今は安宅コレクション1000点を擁する大阪市立東洋磁器美術館になっている。

音楽の安宅賞は、年間12-16名で500万円の規模の賞であるが、英一は若い音楽家に対しても海外留学や滞在の支援をしている。声楽家の中山悌一、バイオリニストの辻久子声楽家の大橋国一、声楽家五十嵐喜芳、ピアニストの田中希代子、柳川守、中村紘子チェリスト堤剛、ピアニストの野島稔などが安宅英一の援助で巣立った人たちだ。

 安宅英一に美術品購入で仕えた伊藤郁太郎によると、大きな戦略を立て、決して急がない、入念な戦術、考えられる限りの手を打つ、というコレクターとしての執念の塊だった。金があればコレクションができるわけではないのだ。伊藤の『安宅コレクション余聞 美の猟犬』を読みながら、コレクターという人生を全うした安宅英一のことを思った。企画展が「安宅英一の眼」となっているのは、その眼が選んだものを展示するという意味で、ものの背後にある安宅英一の眼を感じてもらいたいということだろう。コレクターという人種にも興味が湧く。

もの自身をして語らしむことを念じていた安宅英一は文章をほとんど残さなかったが、言葉は残っている。「ものは、三顧の礼をもって迎えるべし」。「人にお辞儀しているわけではなく、その後ろにものが見えるのですよ。 ものに向かってはいくらお辞儀してもし過ぎることはありません」。冒頭に掲げた「人でも、ものでも、結局のところは品ですね。品格が大切です」という名言は、手触りの肌合いが心地よい品のある質感と、格の高いひびきの調子が大事なのだという考えだろう。ものは人である。

美の猟犬―安宅コレクション余聞