ラウンジでコミュニケーション、研究室で書類整理。連休明けの仕事が始まった。

「副学長日誌」

ラウンジ

・バートル先生:国際交流センターの方針について意見交換。

・学長室の渡辺さん:戦略会議の進め方。

・高野課長:情報交換。

・今泉先生:大学院教務分科会の報告。

・松本先生:多摩大総研。

研究室

・振り込み:学会・研究会などの年度替わりの会員費の処理。

・書類整理

-----------------

「名言との対話」5月8日。テレサ・テン「「わたしはチャイニーズです。世界のどこで生活していてもわたしはチャイニーズです」

テレサ・テン1953年1月29日 - 1995年5月8日、中華圏で使用された名前は鄧麗君〈デン・リージュン〉)は、台湾出身の歌手

1970年代から1990年代にかけて、中華文化圏全域、日本、タイ、マレーシアなども含めたアジアにおいて広く人気を博した歌手であり、生前から、そして没後も「アジアの歌姫」と呼ばれている。作品の累計売上は、控えめに見積もっても1億枚を超えるという。

テレサはクリスチャンネーム。テンは本名の姓『』の中国語音をウェード式表記し、英語読みしたものである。鄧麗君とも書く。テレサ・テンは北京語に加えて台湾語広東語日本語英語に堪能で、山東語マレー語フランス語などの言葉も話せた人だった。

日本での「つぐない」「愛人」はそれぞれ150万枚、「時の流れに身をまかせ」は200万枚の大ヒットになった。たまたま見ていた昨日の夜のNHK「うたコン」は昭和の歌姫を対象とした番組だったが、冒頭はテレサ・テン特集であり、久しぶりにその歌声を聴き姿をみた。日本でも今なおファンが多い。フィギュアスケート浅田真央は休養発表後に「時の流れに身をまかせ」が心の支えになり、「何がしたいのか思い浮かばなかったが、言葉を聞いて、自然のまま任せればいいんだと気持ちが楽になった」と語っている。この人の歌は影響力があった。

ニックネームが多い。いわく、アジアの歌姫、台湾の美空ひばり、「軍人の恋人」(台湾)、香港一番のアーチストなど。1986年には、米タイム誌によって世界7大女性歌手の1人に選ばれたている。タイのチェンマイで1995年5月8日、42歳で逝去した時には、ニューヨークタイムズも惜しんだし、中国でも「中国青年報」が大きく報じている。

遺体は火葬されず、遺体防腐処理などを施されて土葬され、没後50年は生前の姿であり続ける。なお、台湾でこのような形で眠っているのは、蒋介石、その息子の蒋経国、そしてテレサ・テンの3人というから、台湾での存在の重みがわかる。

天安門事件テレサ・テンの運命を変えた。天安門事件 胡耀邦総書記が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進し「開明の指導者」として支持を集めたが、保守派に敗れて失脚。後任は同じく開明派の趙紫陽となった。1989年6月4日日曜日)に、胡耀邦の死をきっかけとして、天安門広場民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力で鎮圧、多数の死傷者を出した歴史的大事件である。趙紫陽失脚後には、保守派の江沢民が総書記になった。

テレサ・テンの歌は「夜は老鄧が支配し、夜は小鄧が支配する」と言われたほど、中国の民衆に深く浸透していた。老鄧は鄧小平であり、小鄧はテレサ・テンである。天安門事件の影響で、1990年に予定されており、テレサ・テンの夢であった両親の生まれた中国本土での初のコンサートも中止になった。この事件以降、「わたしのこれからの人生のテーマは中国と闘うことです」テレサ・テンは政治的発言をするようになる。

中国本土以外の国に住んでいる中国籍も持つ華僑や、移民である華人たちは、中国人(チャイニーズ)としての誇りを強く持っており、政治体制の違う自身の経済活動を営む国に貢献しながら中国本土の動向を見守っている。そういう複雑な彼らの心理と意識がテレサ・テンの冒頭の発言によく現れている。「私は自由でいたい。そして、全ての人たちも自由であるべきだと思っています」と言うテレサ・テンは作家の三浦しをんが言うように「才能と知性と感受性にあふれた」女性であった。2000年には中国のGDPは日本の4分の一だった。没後、20数年経った今、日本の3倍の経済力を持つようになりつつある中国の躍進と政治体制をテレサ・テンはどのように見るだろうか。

私の家は山の向こう―テレサ・テン十年目の真実 (文春文庫)