会食と会議。

昼食は、九段のグランドパレスの萬寿苑にて。松本地域活性化マネジメントセンター長(多摩大総研副所長)と多摩大総研客員教授をお願いしている渡辺さんと摂る。

「長寿食。食と音楽。シリーズとリピート。時代認識。日野市。京王プラザホテル。17年間3000回イベント。BASEQ。舞浜倶楽部。、、、、。」

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14時:松本先生と文庫カフェで情報交換

14時半:瀧川課長・福井さんから会議資料の説明を受ける。

15時:多摩大研究開発機構評議員会(私は機構長)を開催。

・メンバー:多摩大総研。多摩大情報社会研究所。多摩大医療・介護ソリューション研究所。多摩大ルール傾城戦略研究所。

・社会的投資研究所の新設。2017年度算報告。人事。2018年度事業計画進捗。

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「名言との対話(平成命日編)」5月28日。藤村富美男「私の終生のライバルは、鶴岡さんただ一人です」

藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県呉市山手町出身プロ野球選手監督解説者

呉港中学の投手として夏の甲子園大会で優勝。決勝で当たった熊本工業の川上哲治から3連続三振を奪っている。凱旋時の呉市民の熱狂ぶりは、連合艦隊入港以上のものだったという。

職業野球のタイガースではピッチャーをやりながら、二塁、一塁、三塁を守った。そして37インチの物干し竿と呼ばれた長いバットを振り回した強打者でもあった。川上の赤バット、大下の青バットに対抗し、「色を塗るだけなら誰でもできる、自分は他人の真似のできないバットを使おうと考え」、藤村はゴルフのドライバーをヒントに運動具店に長尺バットを作らせたのだ。2018年現在、アメリカのメジャーリーグで活躍する大谷f翔平の「二刀流」の先輩なのである。

戦時中の1943年には敵性語の追放があった。野球連盟は新用語を通達し、ストライクは正球、ボールは悪球、ヒットは正打、そしてストライクは1本、二本を数え。三振はそれまで、アウトは「ひけ」と呼んだ。

戦後の1946年には選手兼監督という二刀流で、投手としては13勝2敗、防御率2.27。打者としては打率3割2分3厘という堂々たる成績を挙げた。1947年以降は不動の4番打者として、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を象徴する存在となった。1950年に打者として3割6分2厘で首位打者となって翌年も3割2分を打ってからは打者に専念した。

生涯記録をみよう。投手としては10年で34勝11敗(最多は13勝)、防御率は2.34。打者としては19年間でホームラン224本、打点1126、打率3割(最高は3割6分2厘)。年間191安打は1994年イチローに破られるまで44年間日本プロ野球記録であった。1949年の46ホームランは、1948年青田昇川上哲治の記録25本を一気に21本更新。「阿修羅の藤村」「猛打、猛守、猛走」と評したジャーナリストもいた。日本で最初のサイクル安打を記録し、これを2度達成している。藤村富美男プロ野球創成期を代表するスター選手であった。

1956年の広島戦で9回裏二死満塁から三塁ベースコーチに立っていた選手兼任監督・藤村は「ワシが代打や」と球審に告げて打席に入ると、左翼に豪快な代打・逆転・サヨナラ・満塁本塁打を叩き込み試合を決めた。これが最後のホームランとなった。

藤村は初代ミスター・タイガースよ呼ばれた。ミスタージャイアンツ長嶋茂雄は「藤村に憧れて三塁手になった」と公言している。また世界のホームラン王・ 王貞治の一本足打法は、川上監督が藤村のフォームを参考にしたものである。

少年時代の沢村投手、現役時代の川上、別当など、気になる存在はいたが、藤村にとって南海ホークスで活躍した同じ呉出身の同年生まれの初代「ミスターホークス」で、プロ野球史上最多勝監督鶴岡一人が終生のライバルであった。リーグは違ったが、その活躍を横目に見ながら、自分を鍛え、磨いていった野球人生であった。終生のライバルの存在は大きい。

 

(参考)『ミスター・タイガース 藤村富美男伝』

ミスター・タイガース―藤村富美男伝