7月発刊の新刊の見本が届く。

7月発刊の久恒啓一編著『偉人の誕生日366名言集』(日本地域社会研究所)の見本が届いた。昨年の「命日編」とこの「誕生日編」で上下巻がそろった。

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今年毎日書いている「名言との対話(平成命日編)」で、なかなか人が見つからなかったため、抜けている日が4日あった。それを埋めることに着手。情報を集め、補完していこう。

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「名言との対話」6月17日。宿沢広朗「銀行が必要ないと言えば、ラグビーに賭ける覚悟はある。ただ、両方やっていないと、価値がないんじゃないかと思う」

宿沢 広朗(しゅくざわ ひろあき、1950年9月1日 - 2006年6月17日)は、埼玉県出身の元ラグビー選手、ラグビー日本代表監督。

埼玉県立熊谷高等学校ラグビーを始める。東大紛争により入試が中止されたため、早稲田大学政治経済学部へ進学した。早稲田時代は、160cmと小兵ながら、卓越したゲームコントロール、機敏なプレー、果敢なタックルで2年連日本一になるなど続黄金時代を牽引した。

卒業後は1973年に住友銀行(現・三井住友銀行)に入行し、1977年末より7年半ロンドン支店に駐在。帰国後は主に為替ディーリング畑で過ごし、取締役専務執行役員コーポレートアドバイザリー本部長を務め、本業においても優れた実績を残した。

この間、1994年早稲田大学ラグビー部の監督に就任し、支店長職と兼任した。毎週水曜日だけは定時に退社してグランドに駆けつけ、後は土日祝日を利用していた。1989年から1991年まで日本代表監督となった。ラグビーの用事は、基本的に土日祝日・有給休暇しか使わないという方針を貫いている。1989年5月28日秩父宮ラグビー場IRB(国際ラグビーボード)所属のスコットランドに、平尾誠一主将のチームで28-24で勝利した。そして第2回ラグビーワールドカップ(1991年)では、監督として日本代表の初勝利を得ている。「本当に必 要なことは絶対に勝てということより「どうやって」勝つのかを考えて指導することであり、具体的にかつ理論的に 頑張るのか指導すること」、これが宿沢監督の方針だった。

座右の銘は「努力は運を支配する」「勝つ事のみ善である」。講演会などで「戦略は大胆に、戦術は緻密に」「リーダーは選ぶものではなく、育てるもの」と自身の信条をよく述べていた。

宿沢の言葉は、ラグビー指導者にとどまらず、組織人としての教訓にも満ちている。

・いつも背伸びして、手を目いっぱい挙げ、その指先が届くかどうかのレベルにチャレンジする事だ。辛いけど、そうすれば自身が磨かれる、成長できる。

・会社員にとって『自分がやりたい事』と『人事や周囲の人たちがやらせたい事』は往々にして違う。仮に違っても、それはそれでチャンスだと思う。

・サラリーマンの醍醐味は『組織の長として自分の思うように組織を動かせる』事に尽きる。それを経験せずにサラリーマンを論ずることはできない。

日本の代表的銀行で出世を果たしながら、ラグビー監督としても大活躍するという二足の草鞋、いや現代流にいえば正真正銘の「二刀流」を見事に成功させた。宿沢は両方をギリギリまでやることに価値があると考えたのだ。この心構えとそれをやり遂げたのは見事だ。登山中に心筋梗塞を発症し55歳で急逝したが、そのまま突き進んでいたら、どのうような生涯を送っただろうかと同世代の英雄の姿を想像する。

 

  

TEST MATCH―宿沢広朗の「遺言」 (講談社+α文庫)

TEST MATCH―宿沢広朗の「遺言」 (講談社+α文庫)

 

 

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今年書いている「名言との対話(平成命日編)」で、抜けている日が4日ある。それを埋めることに着手した。未完。

 

「名言との対話」2月29日。鏡里喜代治「10番勝てない時だ

鏡里 喜代治(かがみさと きよじ、1923年4月30日 - 2004年2月29日)は、青森県三戸郡斗川村(現・青森県三戸郡三戸町)出身の元大相撲力士。第42代横綱

太鼓腹を活かした寄りが得意で、右四つで左上手を引きつけて、相手を太鼓腹に乗せて浮きあがらせ、悠然と寄り切っていくという取り口だった。69連勝の双葉山を師匠として直伝の野雲竜型の横綱土俵入りの見事なせり上がりは「動く錦絵」と称された。鏡里は生涯記録の幕内勝ち星のうち、実に40%は「寄り切り」だった。

横綱昇進後、不振が続いた鏡里は、場所前に「10勝できなければ引退する」と記者に語った。結果は9勝にとどまり、千秋楽をもって引退する。同じ場所に、三役時代からライバルだった筋肉質で八等身の吉葉山は9日目に引退している。吉葉山との取り組みは明治時代後期に「梅常陸時代」と呼ばれ、相撲黄金期を築いた梅ヶ谷藤太郎常陸山谷右エ門の対決を彷彿とさせた。

食生活と過激な運動習慣に影響で、一般的には相撲取りの寿命は短い。そのような中で横綱が60歳の還暦を迎えることはめでたいとし、赤い綱を締めて土表入りをすることになっている。近年では大鵬の例を思い出す。鏡里はリハビリ専念中であったため還暦土俵入りはしなかった。80歳で没したが、これは横綱としては梅ヶ谷の83歳、若乃花の82歳に次ぐ長寿であった。

1958年1月場所で不振だった鏡里へマスコミが横綱の責任とは具体的には何かと問い、「10勝勝てない時」に責任を果たせたとは言えないと回答。10勝にわずか1勝届かなかったため、潔く引退。 出処進退のきれいな有言実行の横綱だった。

 

 

「名言との対話」4月19日。高橋節郎「絵心、詩心、遊び心が芸術家の三大要素である」

髙橋 節郎(たかはし せつろう、新字体高橋 節郎旧字体高橋 節郞1914年大正3年)9月14日 - 2007年平成19年)4月19日)は、日本の芸家である。

当初は画家志望だったのだが、父が画家になることに反対し、やむなく東京美術学校では工芸科漆工部に入学する。日々漆という素材と格闘するうちに、漆の魅力に惹かれ、「漆で絵を描こう」と方向を定めていく。

初期の多彩な色漆による表現から、深い黒をベースに金と朱に移行し、そしてさらに黒と金のみの表現へと進んでいった。都市の情景や詩的人物をへて、独特の幻想世界へと広がっていく。化石、古墳、星座などがモチーフとなっていく。日本独特の工芸美と欧米の近代美の融合がテーマとなった。

漆は色を出すには大変難しく、かつ時間がかかる。漆黒の黒と蒔絵の金は、漆の世界にしかない美しさである。そして幅の広い塗料でもあり、高橋によれば「漆の世界は、ペンダントから日光東照宮まで」扱えるのだそうだ。しかし素材に引きずられることを戒めていた。作家にとって一番大切なのは、感性であり、さらに哲学や思想であると考えていた。

1976年に母校の東京芸大の教授に就任。感性と想像力の教育に力を注いだ。学生たちには幅広い読書をす勧めた。1990年には文化功労者に顕彰された。1999年には愛知県豊田市豊田市美術館・高橋節郎館が開館。工芸科の個人美術館は珍しく芹沢けい介、藤原啓、河井寛次郎などがあるが、漆芸作家は高橋節郎だけである。作家冥利に尽きると感謝し、自らの仕事を全部並べている。

絵心、詩心、に加えて、遊び心を芸術家に必要な要素とあげている。体や頭だけでなく、人間だけが持つ心を満足させる遊びを挙げているのはさすがである。芸術という至高の分野は遊びと密接な関係がありそうだ。

 

漆 高橋節郎黒と金の世界

漆 高橋節郎黒と金の世界

 

 

「名言との対話」6月14日。谷岡ヤスジ「「鼻血ブー」「アサー!」「オラオラオラ」」

谷岡 ヤスジ(たにおか ヤスジ、男性、1942年8月29日 - 1999年6月14日)は、日本漫画家

1970年、『週刊少年マガジン』に連載した『ヤスジのメッタメタガキ道講座』で大ブレイク。作品の中の「アサー!」、「鼻血ブー」は流行語となった。この作品は大学生時代によくみかけた。「全国的にアサー」「全国的にツギノアサー」「ユーガター」「ショーガツー」「「ヒルに近いアサー」「ポカポカ-」などで場面やその展開が一発でわかる。父と母との本音のコミュニケーションをとるガキ、普通の家族の日常風景、勉強を巡る父母とのイザコザ、先生の偽善を暴露する生徒、、、、。

ナンセンスギャグで人気が出た谷岡は、文芸春秋漫画賞をもらい、活躍が期待されたのだが、1999年に56歳で夭折する。

登場キャラクターは殺されてもすぐに復活するし、作風はエログロナンセンスであっても、谷岡の作品の底流に流れているのは、どうしようもない人間という存在にに対する深い愛情のように思える。

 

 ヤスジのメッタメタガキ道講座―もうひとつの「少年マガジン黄金時代」

 
 「名言との対話」4月4日。佐々木高明「照葉樹林文化論」
佐々木 高明(ささき こうめい、1929年11月17日 - 2013年4月4日)は、日本の民族学者。国立民族学博物館館長。
中尾佐助とともに、照葉樹林文化論を構築し、提唱した。マツ、スギを中心とした針葉樹ではなく、シイ、カシ、ブナ、クスノキなど光沢の強い深緑色の葉を持つ樹木に覆われた表面の照りが強い樹木で構成された樹林である。
ヒマラヤから西日本の広がる照葉樹林帯では、森によって育まれた共通の文化が誕生した。モチ、ナットウを食べ、茶を飲み、カイコや漆を利用する。高床吊り壁の家に住み、歌垣、山の神信仰医、そして山の中にあの世があると信じる。この文化のセンターは中国湖南省から雲南・北ビルマブータンに至る「東亜半月弧」であるとする。「外国の引用文献などではなく、自分で調査した結果にもづいて語れ」という京都学派の風土の中で生まれた理論の一つが梅棹忠夫の「文明の生態史観」と中尾・佐々木の「照葉樹林文化論」だった
日本の民族学では、明治以来、特に戦後は日本人のアイデンティティについての研究が盛んになり、この理論は学界だけでなく、広く受け入れれた。西欧文明は西アジアの半感想地帯の草原がルーツであり、東アジアの照葉樹林文化は、大和森の生み出した文化である、という理論である。
この佐々木らの理論は「文明の生態史観」とともに、西洋を相対化するという視点で、戦後の日本人に自信を持たせたのである。文明の生態史観は西洋と日本は親せきであるとしたが、照葉樹林文化論はアジア世界の中に日本を位置づけた。

 

照葉樹林文化とは何か―東アジアの森が生み出した文明 (中公新書)

照葉樹林文化とは何か―東アジアの森が生み出した文明 (中公新書)