『俳句αあるふぁ』夏号で、石牟礼道子(1927年生)と瀬戸内寂聴(1922年生)の俳句が目に入った。共通するのは「子を捨てた」ことである。
小説、エッセイ、伝記、シナリオ、能、狂言、詩、短歌、俳句、、など文芸のあらゆるジャンルに優れた作品を書いたが、晩年に一番親しんだのは俳句である。以下、石牟礼道子句集『天』と全句集収録の句から。
・死におくれ死におくれして彼岸花
・祈るべき天とおもえど天の病む
・毒死列島身悶えしつつ野辺の花
・いかならむ命の色や花狂い
・さけがけて魔界の奥のさくらかな
・花ふぶき生死のはては知りざりき
・彼岸花 棚田の空の炎上す
・あめつちの身ぶるいのごとき地震くる
・わが道は大河のごとし薄月夜
「わたくしは水俣病がなければ、自分がそこに生まれ育った世界をこれ程ふかぶかとのぞたであろうかと思う」
瀬戸内寂聴句集『ひとり』から。
・子を捨てしわれに母の日喪のごとく
・独りとはかくもすがしき雪こんこん
「死の間際に私に残るものは俳句だな、と今は思っております」
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「名言との対話(平成命日編)」6月19日。美川英二「交際費をたくさん使って一流の人達と一流の場所でたくさん会いなさい。そうすれば人を見極める力が養えるはずだ」
美川 英二(みかわ えいじ、1933年8月17日 - 1999年6月19日)は、日本のラグビー選手、実業家。横河電機社長。
慶応のラガーマンだった美川は、入社した横河電機でコストダウンによる利益捻出作戦=「新幹線発想法」などを打ち出す。この考え方は米国GEのウエルチ会長の目に留まり、GEグループのコストダウン活動の基本的考え方として採用され幹部学校のテキストにまで載っている。59歳で社長になるが、破綻した山一証券の中年層を20名採用している。ウェルチと親交があり、入院した際には、自筆の見舞状をファクスで送って、ウエルチがいたわった。家族主義の温情的な会社であった横河電機に年俸制や実力本位の人事を導入した。雇用は守る、給与なども最高クラスを出しているが、厳しい社内改革も必要という考えだ。
美川が社長だった当時、社内ベンチャーとして起業したキューアンドエー社(地域密着型のパソコン販売店)の金川裕一が、「そこまで言うのなら、やってみろ」とゴーサインを出した時、社長の心得として言われて、後に身にしみた言葉である。
美川英二の言葉を眺めて思い出すのは、企業に勤務していた30代の頃、「会社の金と自分の時間を使っていい仕事をしろ」と語ってくれた人事労務担当の上司と、「金の使い方が足らん」と叱責された広報課長の上司の言葉だ。社内の現場の人たちの本音をくみ取る。社外の異業種の先頭を走る人々と会い世の中の動きを察知する。もう一つ、社外のビジネスマン勉強会にも参加し活動し、先輩の指導を受けて時代の最先端を切り拓いている講師陣からも刺激を受けた。そういう社内外の案内人の指導を得て、なんとか組織人としての仕事をこなすことができた。
美川の言うように、組織のトップになると一流の人との接触による鮮度の高い情報入手と人物の見極め、そしてトップのあり方への示唆が、直接・間接に業績に直結するようになる。美川英二の葬儀時の奥様は「英二は戦士の如く働いたと思います。最後だけは私の我侭をお願いして家族だけで過ごすことが許されました」とお礼の言葉を述べた。何か切ない気もする。