中村八大『ぼく達はこの星で出会った』(黒柳徹子・永六輔編。講談社)--早熟の天才の嘆きが聞こえる

中村八大『ぼく達はこの星で出会った』(黒柳徹子永六輔編。講談社)を読了。

 天才ピアニスト、名作曲家の中村八大が1992年6月10日に亡くなって後、残された文章が発見された。その原稿を中心に、親友であった黒柳徹子永六輔が対談形式で編集した本である。

中村八大は私の母の中国・青島時代の幼馴染みであり、勧められて読了した。早熟の天才の嘆きが聞こえる。

「私はある一人の人間としての一生で得る、あるいは失う、もろもろの出来事を早く得すぎた(あるいは失いすぎた)のかも知れない」「ごめんさない。僕はもう、音楽は全部なくなりました。もう、まったく空っぽで、何もありません」「作曲家の八方ふさがりは、外的な情況からくるのではなくて、自己自身の精神的な枯渇からくる場合がほとんどである」

小学校時代「作曲家になりたい」「生涯をかけて大音楽家になろう」。終戦の日のから2、3日後「新しい時代がくる。新しい音楽の時代がくる。音楽こそ僕の生命だ」。早稲田入学時「いよいよ僕自身の人生が、僕自身の未来が、僕自身の手で限りなく開けてゆくのだ」

大江健三郎との対談「とにかく一つずつ丁寧な仕事をつい重ねていくこと」

 

ぼく達はこの星で出会った

ぼく達はこの星で出会った

 

 

「名言との対話」7月3日。加藤楸邨「選はめぐり会いである」

加藤 楸邨(かとう しゅうそん、1905年明治38年)5月26日 - 1993年平成5年)7月3日)は日本俳人国文学者

水原秋桜子に師事、はじめ「馬酔木」に拠ったが、後に中村草田男石田波郷加藤楸邨は「人間探究派」と呼ばれる。26歳で俳句を始め、34歳での第一句集『寒雷』に始まり、戦後の『火の記憶』『野哭』、そして『吹越』『雪起し』にいたる60年以上に及び第一線で活躍した。また、60代の頃から書と句をひとつにした独自の作句法をとり、その作品は書句集『雪起こし』に結実した。

「日常的なものの深層にあるものを探りあてたい」。「日常生活の裏には、一度真実を求めて揺りたてると、思ひがけない深淵が口を開いていることを感ずる」。

1940年。共に道を求めようとしてくれる人々との錬磨不退転の道場があればよいと主宰俳句雑誌「寒雷」創刊。この句誌で、伝統俳句系の森澄雄社会性俳句から前衛俳句に進んだ金子兜太という対照的な二人をはじめとして多様な俳人を育てた。門人を「仲間」と呼んで対等に議論し合える関係を望んだこともあり、多くの俳人が門に入った。これらは「楸邨山脈」と呼ばれるほどの偉容であった。

1941年頃より始めた芭蕉研究は楸邨のライフワークとなる。39歳、俳人代表として大本営報道部嘱託の身分で中国大陸俳句紀行を行う。歌人代表は土屋文明だった。1954年、49歳で青山学院女子短期大学国文科教授に就任、1974年まで務めた。 1970年、65歳で朝日俳壇選者。齢67歳でシルクロードの旅に出発。69歳、第2回シルクロードの旅。74歳、岩手県花巻に高村光太郎山荘を訪問。80歳、日本芸術院会員。84歳、第1回現代俳句大賞。87歳、朝日賞。北杜市小淵沢町加藤楸邨記念館開館。 

句集は以下。寒雷(1939年)。穂高(1940年)。雪後の天(1943年)。火の記憶(1948年)。野哭(1948年)。起伏(1949年)。山脈(1950年)。まぼろしの鹿(1967年)。吹越(1976年)。怒濤(1986年)。雪起し(1987年)。望岳(1996年)。

 以下、印象に残った句をあげてみる。

 十二月八日の霜の屋根幾万(開戦)

 これぞ茂吉黒外套のうしろ肩(斉藤茂吉訪問)

 壱岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな(壱岐神社に建つ句碑)

 バイロンに生きて糞ころがしは押す

 ついに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど

 いなびかり女体に声が充満す

 野の起伏ただ春寒き四十代

楸邨は選をしていると、辛いが思いがけない句、自分にはできそうもない句に出会う。それが選者の喜びだという。。一日に、数千、数万の膨大な句から選ぶのはくたびれるだろうが、そういう句にめぐり会うと疲れがふっとぶのだ。そういえば寒雷の仲間の一人であった金子兜太も選には熱心だった。選者の喜びとは、句と人とのめぐり会いの喜びであろう。

参考:石寒太『わがこころの加藤楸邨』(紅書房)。