話題の「舞浜倶楽部」(介護付き有料老人ホーム)を見学--食事と音楽と人間関係。

新浦安の「舞浜倶楽部」を総研・松本先生と見学。グスタフ社長と廉隅顧問から説明を受ける。外観はエミルタージュ美術館を模した建物。

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 スエーデン式。食事と音楽。地域の力。地域と地域のつながり。ブンネメソッド。タクティールケア入門。ソーシャルサポート。認知症カフェ。サポーター養成講座。人材不足がテーマ。日本はコミュニティづくりに優れている。多様な主体の協働。人が集まるのは食事と音楽。看取りケア。おいしい食事と活発な人間関係。個人史(バックグラウンド)。多世代交流。食事は委託しない。一人一人の好みを把握。ブンネギター。クリニック併設。スタッフ120名で76名。普通食・嗜好食・軟菜食・ミキサー食・行事食・配慮食・きざみ食・医療食・特別配慮食。食事と排泄をきれいにまわす。チェックリスト3000。ピル・ケース。人材育成が一番。離職率が目安。

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隣の妹夫婦のマンションを訪問。

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 豊洲に住む娘の第二子が本日早朝に誕生。妹夫婦と一緒に病院を訪問し、新生児男子をみる。

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「名言との対話(平成命日編)」7月9日。山田五十鈴「「緻密な観察力と、たくましい創造力」

 山田 五十鈴(やまだ いすず、1917年2月5日 - 2012年7月9日)は、日本女優。女優初の文化勲章受賞者。享年95。

戦前から戦後にかけて活躍した、昭和期を代表する映画女優1960年代以降は舞台女優としても活動し、水谷八重子杉村春子とともに「三大女優」と呼ばれた。

自伝『山田五十鈴 映画とともに』(日本図書センター)を読むと、この大女優が仕事に目覚め、精進し、ライフワークに挑戦していく成長の姿がよくわかる。結婚を3度しているのだが、そのつど相手からの影響で女優として、人間としての自覚を持ち、そしてそれを乗り越えて歩いていく姿が印象的だ。

結婚して子どもをもうけ、女優をやめる覚悟で最後の一本「浪華悲歌」に取り組むと、芸事に対する執念、貪欲さがわき上がってくる。そして演技者になろうとする強烈な欲望が生まれる。女優を一生をかける仕事だと決心すると、もっと勉強しなければという気持ちがわいてきて、「鶴八鶴次郎」の成功で自信がつき、かつてない貪欲さで勉強に没頭する。そして「私にはしなければならないしごとがあるのだ」という考えがさらに強くなり、「りっぱな演技者であるなら、つねに大衆の愛情と批判によってそだてられていくものであるというきびしさ」を知るようになっていく。

山田五十鈴の回想によれば、「浪華悲歌」「祇園の姉妹」が女優生活の方向を決定し、「鶴八鶴次郎」でかたまって、「或る夜の殿様」で戦中・戦後の私生活を含めたもやもやした空気を取りはらって、ライフワークである女優の道を迷いなく歩いていくようになった。

「人間がちゃんとした目的もなしに生きていることのくだらなさ、はかなさへの反省」、「人間としてのふかい自省というものがどんなにたいせつなものか」、 「演技を通じて成長していかなければならない」。

映画女優生活を長年送ってきたが、まだ映画演技の体系ができていないという山田五十鈴は、しかし幾通りもの表現のしかたをいっぱい引き出しのなかにしまって、撮影の現場に持っていかなければ間にあわないと、勉強を続けていく。

「いろんな人間を創造していく方法や、演技の創造方法について根本から勉強しなければならない」「日常の基礎訓練をつみかさねることと、観客の皆さまから教えていただくということが、つねに両立していかないと、ほんとうの俳優としての成長はありえない、人間としてもたかめられることがないのではないか」

「緻密な観察力と、たくましい創造力」を念頭に演技と表現に一生を捧げた山田五十鈴は、「みて下さる観客に自分のやっているしごとがどんなに大きく影響するかということ、こんなよろこびを感じるしごとは他にないのではないか」と仕事観を語っている。さまざまの人物の創造を試みるという志を持っている大女優の演技が大衆の生活に与える影響はきわめて大きなものがある。山田五十鈴は大いなる女優であり、また人間としても偉い人であった。

山田五十鈴―映画とともに (人間の記録)

山田五十鈴―映画とともに (人間の記録)