41.1度。日本新記録の暑さの日。

本日は熊谷で41.1度と、日本新記録の暑さの日。

早朝の公園。ラジオ体操と太極拳の人々。

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 大学

・ 国際交流センター運営会議(バートルセンター長):経営情報学部とグローバルスタディーズ学部と大学院。国際化ヴィジョン、、。

・高野課長:打ち合わせ

 ・T-StudioでのAO入試対策セミナーに顔を出す。樋口先生と近況交換と食事の約束。森島課長から入試の状況を聞く。

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 「名言との対話」7月23日。南部忠平「「負けたって殺す奴はいないんだから、やってみるしかないんだよね」

 南部 忠平(なんぶ ちゅうへい、1904年明治37年5月24日 - 1997年平成9年)7月23日)は、日本の陸上競技選手走幅跳の元世界記録保持者。ロサンゼルスオリンピック陸上男子三段跳金メダリスト。享年93。

南部は、北海中学時代に、三段跳びで第一人者・織田幹雄を破った。歳は一つ下だが、陸上でも早大でも先輩だった織田を南部は立てた。緻密で繊細で数学的な織田、明るく開けっぴろげで直感的な南部。『自伝』の中でも、「さん」と「君」という呼び方がでてくる。アムステルダムオリンピック三段跳びで日本人初の金メダルを獲得した織田も「私の成功は南部君に負うところが大きいのでした」と述べている。二人はライバルであり、また終生の親友だった。

オリンピックを狙うには、体力と技術の両方が必要な幅跳びや三段跳びの方が勝つ見込みが大きいと南部は戦略を考えた。走り幅跳びの「南部式反り跳び」には、、踏み切ってから着地まで5つの段階があると言うように、技術を磨いている。「人と違った練習をしなければ勝つことはできない」のだ。1928年のアムステルダム大会では三段跳びで4位。ロシアのピョートル大帝が船大工の修行をしたザンダムで合宿をした。

身長164cm、体重64キロの南部は、次のロサンゼルス大会では、本命の走り幅跳びで出場し金メダルを狙ったが3位に終わるのだが、2日後、織田、大島が故障し、代役で出た三段跳び世界新記録で金メダルを獲得する。本業ではなく、副業で優勝したから「世の中はわからないもんですよ」と後に語っている。

ロサンゼルス大会前に、毎日新聞社運動部に入り、55歳で運動部長を勇退。その後、東京オリンピック陸上競技監督もつとめた。いくつかの大学で教授をつとめたのだが、最後には鳥取女子短期大学学長にまでなっている。ハーレー・ダビッドソンで自宅の吹田市から鳥取女子短大に通っていた。88歳で勇退

南部忠平という伝説のアスリートの名前のついた大会が二つある。故郷札幌の円山陸上競技場で行われる南部忠平記念陸上競技大会と、縁の深い鳥取県倉吉市で行われる南部忠平杯くらよし女子駅伝競走大会だ。また2003年まで南部忠平杯全道駅伝競走大会も開催されていた。北海道には本郷新の「南部忠平顕彰碑」や胸像が存在する。

 

「やってみるしかない」というチャレンジ精神でスポーツ人生を駆け抜けた南部忠平は、「人生もスポーツも、達人の域に達すると美しさが出るものだ」と言っている。自身もスポーツだけでなく、人生も達人の境地にあったのだろう。南部忠平は美しい生涯を送った。 

南部忠平―南部忠平自伝 (人間の記録 (117))

南部忠平―南部忠平自伝 (人間の記録 (117))