「あなたはこの授業を受けてどう変わりましたか?」

学部授業「ビジネスコミュニケーション」の最終回のアンケート「あなたはこの授業を受けてどう変わりましたか?」

・世界が変わった。これからの⼤学⽣活でも“図解”を活⽤していきたい。

・⼀回り⼤きく成⻑したように思った。他の⼈たちに負けない1つの⼒だと思う。この講義を受けて良かった。

・図解の本質に触れ、無限⼤の可能性を感じた。⼤きく成⻑できた。「図解」で事業やプロジェクトのビジネスに⽣かしていきたい。「図解」は社会の課題や問題のソリューションとして活躍できると思う。

・新しい特技を⾝につけ読解⼒がついた。物事を図解にして考えるようになれた。

 ・分析⼒が上がった。物事の本質を⾒られる様に成⻑した。

・キーワードの関連性や関係性、俯瞰視点での⾒え⽅が分かるようになった。

・今まで避けていた内容の⽂章にも慣れたので苦⼿意識がなくなった。

・構成⼒を⾝につけることができた。分かりにくい⽂章も分かりやすくまとめる⾃信がついた。⾃分に期待したい。

・今まで避けていた内容の⽂章にも慣れたので苦⼿意識がなくなった。

・まず物事を⾒る⽬が変わった。どんなことをするにも、全体像を⾒渡すことがで
きれば問題解決がかなりし易くなる。

・新しい特技を⾝につけ読解⼒がついた。物事を図解にして考えるようになれた。

・「俯瞰」の⽬を持つ。図解には個性がある。図解には正解がないという⾔葉で描
きやすくなった。⼤きく成⻑できた。

・講義を受けていなければここまでできるようにならなかったので、⾮常にありがたい授業だった。

・「頭の筋⾁を鍛え、考える⼒を強化する」という⾔葉が⼼に響いた。

・最終課題の⽂章を読んでいるときに、⾃然と図解を考えられるようになり、成⻑に繋がったと感じた。

・図解が⼤好きになった。

・⽂章を理解する能⼒が上がった。

・論理的な考えがある程度⾼められた。⽂書やデータの中から中⼼的なことをすぐ探すことが上⼿くなった。まとめる能⼒も⾼められた。

・図で表現することにより、企業の考え、偉⼈が考えている事が図で表現出来る様になった。就活の際には図を利⽤したいと思った。

・多⾓的な視点で物をとらえて⾒ることができるようになった。

・図解を知り、こんなにも⼈に伝えやすく⾒やすいものがあるのかと驚いた

・⾔葉と⾔葉をつなぐポイントが分かった。⽂章を読む⼒がついた。⻑時間作業する⼒がついた。

・図解するんだ、と思って⽂を読むと頭に⼊ってきやすくて、とてもいいことを学んだ。

・図解を学んだ事により難しい⽂章も理解し易くなった。これからも図解を使っていこうと思う。考える事が重要だと感じた。

・⻑⽂の読解⼒が上昇し、「まとめる」→「分かる」というプロセスができあがった。

・他の講義で活かせる機会が多かった。

・普段のノートの取り⽅が変わった。来期も楽しみにしています。

・図で表現することにより、企業の考え、偉⼈が考えている事が図で表現出来る様になった。就活の際には図を利⽤したいと思った。

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市ヶ谷にて。

・N出版社:処女作を出版してもらった出版社。2つの出版企画が浮上。

・M社:楽しみな新たな教育プロジェクトが出発。

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「名言との対話」8月1日。永山則夫「私がなければ事件は無い、事件がある故に私がある」

永山 則夫(ながやま のりお、1949年6月27日 - 1997年8月1日)は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件警察庁広域重要指定108号事件)を引き起こした刑死者である。1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家でもあった。1983年、小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。

 永山則夫は北海道網走市呼人番外地で生まれ、青森の中学卒業後、上京。店員、自動車塗装工、日雇労働者等を経て、1968年に東京、京都、函館、名古屋で4件の連続射殺事件を起こす。1969年に逮捕。1990年死刑確定、1997年47歳で死刑執行。

生前から話題になっていた永山則夫とは同学年であることを知り、興味をそそられながら526ページの『無知の涙』を読了した。「金の卵たる中卒諸君に捧ぐ!」と表紙に記された記されたノートへの詩と断章の書きつけである。ノートは10冊あって、1969年7月2日から、1970年10月30日までの1年3ヶ月の膨大な記録である。この間は、私の大学入学直後から2年生の前半にあたる。

「私は四人の人々を殺して、拘留されている一人の囚人である」。7月2日は「罪人よ ああ罪人よ 罪人よ どこえ行くんだろう この道は どこえ行こうとしているのだろう、、」から始まる。この期間に連続射殺魔・永山則夫は哲学・精神分析学・心理学・小説などあらゆる名著を紐解いている。この独学で自己自身を考える実存主義思想思想で両足で立つことを教えられ、貧困を扱った師マルクスエンゲルスから決定的に覚すいさせられる。そして、マルクスを信奉する左翼という立ち位置を獲得する。その過程が克明にわかる。「頭の中で逃走する」という存在理由を見つけたから、「私は生きますよ死ぬまで、、」と決意表明をしている。

・実存という言葉の意味をつかんだ。実存とは、私がこのように物を書き綴っていることなのである。

・たった一年間で世界という物の根源的状態を知り得たということである。

1971年に手記『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』を発表。1983年には小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。1980年に以前から文通していた在米日本人・和美(フィリピンと日本のハーフ)と獄中結婚。

永山の作品は以下のように多い。手記では、『無知の涙』合同出版(1971年)のち角川文庫、河出文庫。『人民をわすれたカナリアたち』辺境社(1971年)のち角川文庫、河出文庫。『愛か-無か』合同出版(1973年)。『動揺記1』辺境社(1973年)。『反-寺山修司論』JCA(1977年)。永山則夫の獄中読書日記-死刑確定前後 朝日新聞社 1990。日本 遺稿集 冒険社 1997。文章学ノート 佐木隆三監修 朝日新聞社 1998。死刑確定直前獄中日記 河出書房新社 1998。小説としては、『木橋(きはし)』立風書房1984年)のち河出文庫- 第19回新日本文学賞受賞作品。『ソオ連の旅芸人』昭和出版(1986年)。『捨て子ごっこ』河出書房新社(1987年)。『なぜか、海』河出書房新社(1989年)。『異水』河出書房新社(1990年)。『華』1-4、河出書房新社(1997年)。その他:『死刑の涙』(1988年)。

このノートで「私は本を出したいと願望している。、、印税が入ったら、私が殺めし家族の人々にそっくりそのまま渡したいためである」と記している。死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの、永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。

「このような大事件を犯さなければ、一生涯唯の牛馬で終わったであろう。人間ゆえ、思考可能な人間ゆえ私は知ってしまった」永山は、司法が死刑と無期懲役に揺れる中で、あくまで生きようとして闘い続けた。「動機なき、理由なき殺人」を犯した永山則夫は、その事件を起こした故に牛馬ではなく、「人間」になったという一大パラドックスの考えさせられるドラマである。永山則夫という希有な存在は、死刑の存廃にかかわる論争を呼んだ。 

無知の涙 (1971年)

無知の涙 (1971年)